巻頭企画 天馬空を行く

「ここさえ乗り越えたら、 きっと道は拓ける──。 苦しいときはいつも、 そう思い続けていましたね」

 

不撓不屈の精神で

常人であれば、とうに志し半ばで断念してしまうであろう状況において、西岡氏の闘志は決して消えなかった。逆境の中、残されたわずかなチャンスを虎視眈々と待ち続けた氏は、どのようにしてピンチを乗り越えてきたのだろうか。

「振り返ってみても、あの時期はほんとに苦しかったですね。4度の世界挑戦失敗後、ノンタイトル戦を8試合やりましたが、その間は常に引退勧告されているようなもの。一度でも負けたら、即引退を言い渡される状況だった。思い通りの動きをいつまでも取り戻せない焦りもあって、何度もボクシングを諦めそうになりましたね。でも、苦しいときはいつも『俺は必ず世界チャンピオンになれる。ここで諦めてしまったら全てが終わってしまう』と思っていたんです。厳しいトレーニングを続けてピンチを乗り越えた先には、必ずチャンスがある──だから、あと少しだけ歯を食いしばって頑張ろうと。そうやって、ある意味では自分で自分を騙し続けていましたね。
 4度目のウィラポンとの対戦後の2005年、僕は結婚しました。もしも結婚してなくて1人で戦い続けていたら、多分あの挫折は乗り越えられなかったかもしれません。11歳で掲げた世界チャンピオンの夢が、結婚によって僕一人が背負うものではなくなり、愛する妻の夢となり、愛娘の夢になり、家族みんなの夢へと変わっていったんです。『愛する家族のために、絶対に世界チャンピオンになるんだ』というモチベーションが加わったからこそ、頑張れたと思いますね。
 けれど、さすがに焦りはありました。世界チャンピオンにならない限りは何もかもがこれ以上前に進まない気がしたんです。もともと僕自身、そんなに器用なタイプではなかったので、周囲には必要以上に気を遣わせてしまった部分もありました。とにかく頭の中はボクシング一本に集中していたため、ジムに行けば練習のことしか頭になかったですし、試合が決まると人一倍ぴりぴりしていました。王者として防衛戦を重ねていた頃、試合後のリング上で娘を抱きながらインタビューを受けるのが恒例になっていました。しかし、その光景は僕のイメージとはかけ離れていたようで、『西岡って笑うんだ』って言われるほどでした(笑)。
 当然、家族にも寂しい思いを強いてしまいました。ボクシングというスポーツは試合当日に向けて、自分をとことん追い込み減量やトレーニングを積み重ねていくもの。僕は、家庭を持ったことに大きな幸せを感じつつも、どうしてもそれと両立できる自信がなかった。それで、試合が近づくたびに妻と娘を兵庫に残し、東京で1人で生活する決断をしたんです。でも、とても寂しかったですよ。全ては世界チャンピオンになるため、苦渋の選択でした。ありがたいことに、家族はそんな僕のわがままを受け入れてくれて、思う存分やらせてもらいましたね。また、『世界チャンピオンになるまで結婚式を挙げるのを待ってほしい』という僕のわがままを許してくれた美帆(妻)にも義父にも、本当に感謝しています」

ボクシングを極める

最後の世界挑戦から4年半が経った2008年9月、待ち望んだ5度目の世界挑戦のチャンスが訪れる。そして、ナパーポン・ギャットティサックチョークチャイとの激闘を制した西岡氏は、悲願の世界チャンピオンの座にたどり着いた。このとき、氏は32歳。11歳から歩んだサクセスストーリーは、あまりに壮大なドラマであったといえよう。

「世界チャンピオンになった瞬間、それまでのいろんな感情が溢れだしてきて、何とも言えない大きな感動を味わえたひとときでした。そして、僕と僕の家族の夢がかなった瞬間でもあったんです。
 実は王者になった時点で、最初の防衛戦のカードは決まっていたんです。加えて、世界の頂点に立った僕の中では『ボクシングをもっと極めたい』という欲求がどんどん強くなっていました。だから、もう少しだけボクシングを続けることにしたんです。もっと強くなるために」

西岡氏はチャンピオンになって以降、3年間で7度の王座防衛を達成した。常に強者との対戦を望むマッチメイクは、「日本人は国内でしか試合をしない」と言われていた当時のボクシング界の殻を突き破り、2度の海外防衛を実現させた。2度目の防衛戦ではメキシコに渡り、ジョニー・ゴンザレスを3ラウンドKOで下し、7度目の防衛戦では日本人初となるボクシングの聖地・ラスベガスでのメインイベントに勝利した。大一番での勝負強さは、氏の世界的評価にもつながり、2010年・2011年の日本ボクシングコミッション年間最優秀選手にも選ばれた他、日本人初となるWBC名誉王者に輝く。

「正直、日本ボクシング界の歴史を切り拓いたとかそういう意識はあまりなかったですね。僕はただ、ボクシングを極めるべくより強敵と戦い続けていっただけですから。それが結果的にボクシング界への貢献につながっていったことは、とても光栄に思います。
 自分の中での最高傑作と呼べる試合は、レンドール・ムンローとの5度目の防衛戦でした。判定勝ちになったものの、限りなく理想に近いファイトができた感触があったんです。実際、試合を観戦していた妻からも『もういいんじゃない』と言われましたから、周囲からもそう思えるような試合内容だったんでしょう。けれども僕は、どうしてもボクシングの聖地、アメリカ・ラスベガスのメインイベントに立ちたかった。防衛を重ね、それが手に届きそうになったとき、高ぶる気持ちを抑えられなかったんですね。
 7度目の防衛戦で、その願いはかないました。日本人初となるラスベガスのメインイベントに出場し、強敵・ラファエル・マルケス相手に勝利を収めたこと。その大きな達成感は、引退を決断する十分な理由でした。実際、僕はこのタイミングで引退を考えましたし、周りからみても美しい引き際だったと思います。
 ただ、パウンド・フォー・パウンドランキング(PFP)3位のノニト・ドネアがいました。僕は最強を目指してボクシングをしていました。男だったらやるでしょう。結果は負けました。しかし僕にとって大事だったのは、やりたい気持ちを抑えてチャンピオンのまま引退することではなく、チャレンジするということ。最強の相手と最高の舞台で戦いたかったんです。もちろん勝ちたかったけど結果はしょうがない。自分の心に嘘をつかず挑戦したことによって、結果の満足ではなく心の満足を得ることができました」

 

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