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巻頭企画天馬空を行く

小さな積み重ねが大きな結果に

2003年のNPBドラフト会議、自由獲得枠を通じて阪神タイガースに入団することになった鳥谷氏。複数のチームから声が掛かる中、球団選択の決め手となったのは、年俸やチームカラーではなく、「土のグラウンド」だった。

「野球を仕事としてやっていく、と考えた時に、僕にとって最も大事なのは、どれだけ長く続けられるかということでした。どんな職を選ぶにせよ、それが5年しか続けられないことなら、仕事として成り立たない。少なくとも40歳くらいまでは続けたい。それらのことを加味すると、体に負担がかかる人工芝の球場ではなく、土のグラウンドを持つ球場でプレーしたほうが良いだろうと思ったんです。それで、甲子園球場をホームにしている阪神タイガースへの入団を決めました。プロ入り後も、とにかく毎日試合に出続けることを意識して、試合前の準備も、体のメンテナンスも徹底していましたね。よく、『ストイックですね』とか、『何でそんなに頑張れるのか』と言われるのですが、僕の中では何も頑張ってはいなくて、仕事として当たり前のことをしているだけなんです。明日会議があるから、そのためのプレゼン資料をつくっておく。それと何も変わりません。むしろ、頑張らないといけないという意識があったら、これだけ長くは続けられなかったと思います」

野球は仕事。仕事のために必要なことを欠かさず行う。そんな落ち着き払った、老成しているとさえ言えそうな哲学をプロ入り前から抱いていた鳥谷氏は、1年目から100試合以上に出場し、2年目にはすっかりレギュラーに定着してリーグ優勝にも貢献した。その後、チームとしてはなかなか勝ちきれないシーズンが続くが、同氏は少しも揺らぐことなく、淡々と己の仕事こなしていった。

「優勝したシーズンのことは、実はあまり覚えていません。僕は2年目で、周りは10歳以上離れた先輩たちばかりだったので、とにかく迷惑をかけないよう自分のできることをやって――気が付いたら優勝していたという感じです。それからも、基本的には自分のことに集中して、周囲の意見や眼は気にしないようにしていました。ずっと後にタイガースを離れてから、自分がいかに大きなプレッシャーの中でプレーしていたかを知ることになるのですが、当時は不思議とそれも感じませんでしたね。毎日、試合前のランニングやバッティング練習で、疲労度や感覚のずれなど、自分の心身の状態を入念に確認して、不安材料をなくしておく。そういう小さな積み重ねが、連続出場やコンスタントに結果を出すことにつながったのだと思います」

ヒットを打つ、凡退する、点を取る、取られる――そうした瞬間的な出来事に左右されず、1試合・1シーズンというトータルで野球を考えるようにしていたという鳥谷氏。そんな同氏を象徴するエピソードがある。それは、「試合中にガッツポーズをしない」というものだ。

「これは僕が高校でピッチャーをしていた頃の話なのですが、ある試合で逆転ホームランを打たれて、相手のバッターにガッツポーズをされたんです。その瞬間、僕は絶対に勝ってやろうと心に火が付いて、終わってみれば本当に勝っていました。それ以来、試合中のガッツポーズというのは相手の闘争心を焚きつけるだけで、意味のない行為だと考えるようになったんです。特に、プロ野球はシーズン中、同じチーム・選手と何回も対戦する機会がありますから、相手から変にライバル視というか、意識されないようにすることは大切だと思います。これは審判の方に対しても同様で、ストライク判定に不満をあらわにすれば、かえって厳しくされることもあるでしょう。そうした振る舞い1つでゲームの流れまで変わってしまうのはもったいないので、僕は自分の得にならないことはしないようにしていました」

“二番手”という唯一無二の武器

2004~2018年までで、積み上げた連続試合出場数は1939(歴代2位)、うち2012~2016年では、先述の通り遊撃手として歴代最長となる667試合連続のフルイニング出場を達成。ケガやポジション争いのあるプロ野球の世界で、欠かさず試合に出続けるというのは決して簡単なことではない。鳥谷氏はなぜ、これほどの大記録を打ち立てられたのだろうか。

「今思えば贅沢な悩みだったかもしれませんが、僕は野球を始めてから一度も、何かで“一番”になれたと思えたことがなくて、それをずっとコンプレックスに感じていました。バッティングも走塁も守備も、いつも自分より突出してできる選手がいて、僕は“二番手”。でも、プロに入ってみると、すべてが二番手であるという自分のコンプレックスが、唯一無二の武器になることに気が付いたんです。どこにも穴がない、苦手分野がないから、大事な場面で代打や代走を送られたり、守備固めで交代したりすることがない。それは、他の選手に自分のポジションを奪われないということでもあります。そして、その強みを最大限に生かすには、とにかく試合に出ることが大事だと考えて、ケガをしていようが顔面に死球を受けようが、僕はグラウンドに立ち続けていました」

そうして誰よりも長くショートを守り続けた鳥谷氏。元阪神のあるピッチャーは、「自分が投げるときは、どうやってショートに打たせるかを考えていた」と話すほど、同氏に絶大な信頼を置いていたという。そのことについて、自身ではどう思っているのかを聞いてみた。

「ショートというのは、アウトを取るのがとても難しいポジションで、例えばゴロを処理する時に他の内野手なら体の外に弾いても持ち直す時間がありますが、ショートは少しでもロスが出るともう間に合いません。また、ベースカバーに行ったり、浅いフライなら外野でも追いに行ったり、さまざまなプレーに絡むのも特徴です。たくさんの打球を処理しなければならないだけに、僕は特別なプレーをすることではなく、打ち取った当たりを確実にアウトにすることだけを意識していました。それでピッチャーに安心感を持ってもらえればと思っていたので、チームメートからそういう風に評価されるのは本当に嬉しい限りですね」

苦しい時こそ前を向くメンタリティ

そんな名手・鳥谷氏でさえ、進むべき道に思い悩んだり、スランプで苦しんだりする時期がなかったわけではない。2014年、目標としていたメジャー挑戦を熟慮の末に断念し、2016年には若手の台頭もありサードへコンバート。しかし、数々の試練を経験しながらも歩みを止めることはなく、2017年9月には打者として大きな節目となる2000本安打も達成した。難しい時期を乗り越えられた背景には、氏ならではの思考法があった。

「スタメンから外れたり、コンバートされたり、自分の中で納得のいかない部分は当然ありましたが、一方でこういう時期をどう過ごすかが大事なのだということもわかっていました。苦しい時こそ前を向いて、やるべきことをやっていれば、必ず再浮上のタイミングはやってくる。その時にチャンスを掴めば良い、と。これは、高校2年生の時にケガで投げることも打つこともできなくなり、それでも地道なトレーニングを積んだことで完治後に球速が一気に速くなったという、かつての成功体験があるからこそ、自分の中に定着した思考法だと思っています。また、僕が思い悩んでいた時期に、高橋由伸さんが読売ジャイアンツの監督をされていて、試合の日にあいさつに行くと『こういう時に、若い選手は見ているから、もう一度自分を奮い立たせてしっかりやろう』とエールを送ってくださって――それも大きな力になりましたね。
2000本安打については、正直、打てると思っていませんでしたし、記録に対する意識もなかったです。自分の中では、年間150本のヒットを打つことを目標にしていて、その年は170本打てたので、そっちのほうが嬉しかった。ちゃんとできた1年だったな、と。でも、自分以上に仲間や家族が喜んでくれて、そういう意味では、周りの人に価値をつくってもらった2000本安打だったと思います」

 

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