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巻頭企画天馬空を行く

元バレーボール女子日本代表選手 大山 加奈


大山 加奈
KANA OYAMA

東京都江戸川区出身。小学2年生からバレーボールを始める。小中高すべての年代で全国制覇を経験。高校卒業後、東レ・アローズ女子バレーボール部に所属する。18歳で日本代表入りを果たすと、2002年バレーボール女子世界選手権を皮切りに、翌2003年ワールドカップバレーボール、2004年アテネオリンピックなどに出場。2010年に現役引退する。現在はバレーボール界の発展のため、子どもたち向けのバレーボール教室や講演を中心に、多方面で活躍中。

力強いスパイクを武器に、「パワフルカナ」の愛称で人気を集めた元バレーボール女子日本代表選手の大山加奈さん。恵まれた体格と才能を生かし、若くして女子バレーボール界のエースとして活躍する。「決して順風満帆ではなかった」という現役時代、いかにして立ち向かい、困難を乗り越えてきたのか。大山さんの経験を通じて、今伝えたいメッセージがあった。

両親を説得して始めたバレーボール

まずは、大山さんがバレーボールを始めたきっかけについてうかがった。

「私がバレーボールを始めたのは小学2年生のとき。小学校に入学した時点で、私の身長は138cmありました。同級生と比べて一回り大きかったため、すぐに上級生の目に留まり、『バレーボールをやってみないか』と誘われたのです。練習を見学してみると、バレーボールをしているみんなの姿がとても輝いて見えた。それで、両親にバレーボールをやりたいとお願いしたのです。でも、もともと体が弱かった私は、喘息の持病を抱えていまして。話を聞いた両親は、私のことを心配して大反対でした。とはいえ、どうしてもバレーボールをやりたかったので、『絶対に辞めないから』と両親を説得し、1年かけてやっと許してもらえたわけです」

小学6年生で「全日本バレーボール小学生大会」優勝を果たすと、その活躍ぶりから「バレー界の金の卵」と注目を集めるようになる。自身はどのような手応えを感じていたのだろうか?

「そもそも私は運動が苦手で、体育の成績はいつも良くありませんでした。ところがバレーボールだけは、どんどん上達していったわけです。バレーボールは決して簡単なスポーツではありませんから、出合いは運命だったのかもしれません。小学生の頃からバレーボール一筋でしたので、『将来はバレーボール選手になる』という思いはどこかにありましたね。他にも、小学生の頃には好きな先生がいて、その影響で小学校の先生になることに憧れていた時期もあります。
 転機になったのは、1996年アトランタオリンピック。当時、小学6年生だった私はオリンピックのバレーボールをテレビで見て、とても感動しました。オリンピックの舞台が特別な世界に見え、憧れを抱いたのです。『いつか日本代表の選手に選ばれて、オリンピックのコートに立とう』と、心の中で誓いました」

真のエースになるための試練

その後、中学3年次に「全国中学校選手権」で優勝。高校はバレーボールの名門・成徳学園高校(現:下北沢成徳高校)に進学する。エリート街道を進む最中、ある試合での出来事が、バレーボール選手として大きな成長を遂げるきっかけとなった。

「高校1年生の頃でした。3年生にとっては最後の大会で、負けたら引退。すでに私はレギュラーとして試合に出場していて、正直なところエースとしての自覚もありました。ところが、試合の大事な場面で私にトスが上がってこなかったのですよ。3年生のセッターは私ではなく、逆サイドの同じ1年生選手にトスを上げ続けたのです。仲間から信頼されていないことが、すごくショックでした。
 よく考えてみたら、私は勘違いをしていたのです。と言うのも、セッターの先輩とその1年生の選手は、試合に向けてずっと一緒に自主練習に取り組み、信頼関係を構築していた。かたや私は、もともと人付き合いが苦手で、自分から話しかけることもできないタイプ。小学生の頃からずっとエースと呼ばれてきた自負もあり、『エースは、スパイクさえ決めればいい』と思っていた節がありました。先輩からしてみれば、そんな孤高のエースに大事なトスは託しませんよね。そこからわかるのは、一緒に戦う仲間から信頼されないとパスはもらえないし、それに勝るものはないということです。『エースはチームメイトから信頼される存在にならないといけない』と痛感しました。
 それからは今まで以上に練習をこなしつつ、仲間とのコミュニケーションを積極的に図っていきましたね。仲間と強い信頼関係で結ばれ、最後ここは絶対に点を取りたい場面で、トスを私に託してくれるのはすごく幸せなことです」

思い出の春高バレー決勝戦

日本一を目指して仲間と共に切磋琢磨の日々を送り、高校3年次にはインターハイ、国体、春高バレーの3冠を達成。中でも、春高バレー決勝戦は自身のハイライトともいえる試合だったという。

「これまで何百試合とコートの上で戦ってきた中で、唯一あの試合だけは『この試合が終わってほしくない』と思うほど充実した時間でした。学生時代はずっとバレーボールで日本一を目指していたものの、高校ではなかなかそのチャンスを掴めなくて、悔しい思いをたくさんしました。それでも諦めずに、やっとの思いでたどりついたのが、あの春高バレー決勝戦だったわけです。コートに立った瞬間、それまで貪欲に勝利に執着していた気持ちが、ふっと軽くなりましたね。だから、試合中はバレーボールが楽しくて仕方なかったです。なぜならば、満員の観客が応援してくださる国立代々木第1体育館のセンターコートでの試合、チームも状態が良く、相手チームの実力も申し分ない。『バレーボールをやってきて良かった』と、心の底から思える最高の環境がすべて整っていましたから。相手チームのメグ(栗原恵さん)からスパイクを決められても、不思議と悔しくなかった。永遠にこの試合が続いていってほしい──本気でそう願っていました」

「メグカナ」ブームの苦悩

かつては「東洋の魔女」と呼ばれ、国民的人気を博していた日本女子バレーボールも、その後は長い低迷期を迎えていた。風向きが変わったのは、2003年頃日本中に巻き起こった「メグカナ」ブーム。立役者は「メグ」こと栗原恵さん、「カナ」こと大山さん、2人の若きエースである。同年のワールドカップバレーボール、2004年アテネオリンピックでの大奮闘は、多くのメディアを賑わせ、一大フィーバーを巻き起こした。

「『メグカナ』という愛称をもらったのは、とてもありがたいことでした。メグとも仲が良かったですし、周囲もそうやって私たちを覚えてくれて。けれど、私は周りの目を必要以上に気にするタイプでした。例えば、私たちだけが取り上げられていることに対する先輩の目や、思うように実力を発揮できなかった試合後のファン、メディアの視線など。また、私たちは常に比較されていて、それで凹むことも少なくなかったです。自分の実力と、それを上回る周囲からの期待がプレッシャーになり、あらゆることが気になり出した結果、純粋な気持ちだけでバレーボールに取り組むことができなくなっていきました。
 今になって振り返ってみれば、あの当時の自分に、もう少し余裕を持てなかっただろうかと思います。だけど20歳前後の若さで、あれだけのプレッシャーに襲われて、重荷を感じてしまったのは仕方がなかったかなと」

 

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