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巻頭企画天馬空を行く

オリンピックを目指す

悔しさをバネに、人一倍練習を続けた内山氏。その努力が実を結び、2001年、大学4年生の時には国体で準優勝、同年の「全日本アマチュアボクシング選手権大会」で優勝を果たす。一歩ずつ壁を乗り越えながら実績を挙げてきた中で、さらなる高みを目指し、卒業後もボクシングを続ける道を模索するようになった。

「最初は、大学を卒業したら就職するつもりでした。内定先も決まっていましたので、全日本選手権を最後の大会にしようと思っていたんです。でも、その大会に優勝できた。さらに、日本代表の候補合宿などにも呼ばれるようになったので、もう少し続けようかなと思い始めたんです。
 それで、アマチュア最高峰の舞台、オリンピックへの出場を目指すことにしたんです。頂いていた内定をお断りし、高知県の建設会社で事務員として働きながら、練習をしていました。その年の国体と全日本選手権はどちらも優勝しています。その後、海外の試合にも出てから、東京の観光バスを運営する会社に転職しました。転職した年には全日本選手権に優勝し、3連覇を達成しています。
 当時は朝5時には起きてランニングなどトレーニングをして、8時には会社へ出勤。17時半くらいに上がらせてもらって、それからはまたみっちりとボクシングの練習をしていました。家に帰って入浴してご飯を食べたら22時にはなっていたので明日に備えてすぐに寝る――という生活の繰り返しを2年間ずっと続けていた。きつかったですね」

プロの世界に足を踏みいれる

仕事とトレーニングを両立するハードな日々を送りながら、2004年アテネオリンピックの出場権獲得を目指していた内山氏。しかし、国内予選を勝ち抜いたものの、アジア地区最終予選で敗退。オリンピックへの出場はかなわなかった。

「その後、国体に一度参加して準優勝しましたが、オリンピックへの夢も破れたので、引退するつもりでした。その時に、いろんな方から、『プロにならないか』とお誘いを頂きましてね。でも、絶対にやらないと思っていたんです。プロになるのを意識したことすらなかったから。ただ、しばらくボクシングから離れた生活をしていると、やっぱり、ボクシングを続けたいという気持ちがふつふつと湧き上がってきまして。それで、プロの道に進むことにしたんです」

やるからには世界チャンピオンに

内山氏はボクシングに打ち込める環境をつくるため、仕事を退職した。目標はただ1つ、世界チャンピオンになること。

「25歳でプロデビューというのは、ちょっと遅いですよね。やるからには世界チャンピオンにならないと、その先はないと思っていました。だって、30歳を過ぎて、世界が獲れずに引退したとして、どんな仕事があるだろうか――と考えると不安になるわけですよ。だから、世界チャンピオンにならないわけにはいかない。そのためには、一切の妥協も手抜きもなく、これまで以上に本気でボクシングに取り組む必要があった。だから仕事を辞めたんです」

自分は弱い。弱いから練習をする

遅いデビューではあったが、アマチュア時代の豊富な経験も生かしつつ、連勝を続けた内山氏。8戦目で東洋太平洋王座を獲得し、その後、5度の防衛に成功する。世界王座の道に光が差してきても、慢心することはなかったという。

「東洋太平洋王者になっても、自分が世界を獲れると思うようなことはなかったですね。勝ち続けてはいたものの、自分はまだまだ弱いと心底思っていたんです。弱いから、練習しないと負けてしまう。だから、これ以上のことはできないという限界までやり切って試合に臨む。それの繰り返しでした。
 自分が納得いくまで練習をやり切ると、試合本番では全然緊張しないんですよ。練習で限界まで自分を追い込んでいるから、これだけやって負けてしまうなら仕方ないという心境になれる。対戦相手が、俺より練習しているなんてありえない――そう思えるまで練習していました。そのせいか、試合のプレッシャーや恐怖心もさほどなかったですね。もちろん、応援してくれる方やスポンサーさんがいましたから、背負うものは大きかったと思います。でも、しっかりと練習をして自信を持って本番を迎えられるようにしておくと、けっこう開き直れちゃうんですね。ですからどの試合も、気持ち的には余裕を持って臨めていました」

日々の体調管理もプロの仕事

ボクシングという競技には、日々のトレーニングだけでなく、減量という試練がつきまとう。試合に臨むにあたり、身を削るような過酷な減量に挑む選手は多い。しかし、内山氏は減量に苦しんだことはないという。
 
「僕は、減量はほとんどしてなかったですね。日常の食事管理をしっかりして、試合前に頑張って体重を落とす必要がないようにしていたんですよ。そうやって日頃から自己管理をしていれば減量をしなくて済む。ボクサーは普通、試合が終わると2週間から1ヵ月くらい、何もせずに休養を取るんです。
 でも、僕は試合後2~3日で練習を再開していました。過酷な減量をしている人は、試合後はその苦しみから解放されて、いろいろと食べたいものを食べると思うんです。我慢していた反動が試合後に来る。でも、僕はいつ試合になっても大丈夫なよう、日常的に体重をコントロールしていましたから、そういうストレスとは無縁でした」

理詰めで攻めて、最後はねじ伏せる

常日頃の自己管理を怠らず人一倍練習に励み続けた内山氏。それらは全て、世界チャンピオンになるため。そのチャンスは2010年1月、プロ14戦目で巡ってきた。WBA世界スーパーフェザー級王者、フアン・カルロス・サルガドに挑戦することになったのだ。相手は当時、2階級制覇を達成して次期スーパースター候補と目されていた名選手、ベネズエラのホルヘ・リナレスを1ラウンドTKO勝ちでベルトを奪った強豪だった。

「リナレスを倒した相手ということで脅威に感じる部分もありましたけど、思ったよりは戦いやすい相手でした。ボクシング識者の方たちには、僕のファイトスタイルは、詰将棋のようにじわじわと、少しずつ相手の逃げ道をなくしながらダメージを与えて、ここぞというときに仕留めにかかる――という評価をされていたと思います。
 それは僕が慎重派だから。有利に試合を運べていても、『まだ倒しにいくのは早い』という感じに冷静に相手を分析するなど考えながら戦っていた。そうやって、いつも通りに試合を進めていったところ、終盤になってサルガドにダメージの蓄積があることが感じ取れたんです。その時に『KOできる!』と思いました。そこからは迷いはなかったですね」

 

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