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プロレスラー 棚橋 弘至(新日本プロレス)

棚橋 弘至
HIROSHI TANAHASHI

1976年11月13日、岐阜県大垣市に生まれる。1999年に立命館大学を卒業し、新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現:刀義)戦でデビューを飾る。2003年、初代U-30王者に。2006年、IWGPヘビー級王座を獲得。業界全体の人気が低迷する中で、新日本プロレスの立て直しに身をささげ、全国各地に出向いて地道なプロモーション活動を展開。プロレス人気復活の立役者の1人となった。得意技は「ハイフライフロー」。IWGPヘビー級王座を7度戴冠し、同タイトル最多戴冠記録を保持している。プロレス以外ではテレビ出演や執筆活動を行う他、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で初主演を果たすなどマルチに活躍中。主な著書は、『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(2014年、飛鳥新社)、『疲れない男・棚橋弘至が教える!史上最強のメンタル・タフネス どんなことにもびくともしない「心」が手に入る』(2017年、PHP研究所)。

プロレスラーの棚橋弘至氏は、1999年に新日本プロレスに入門して以降、同団体とプロレス界を牽引してきたエースレスラーだ。業界全体の人気が低迷していた2000年代、幼少期から自身が恩恵を受けてきたプロレスに対する情熱で、所属団体の立て直しに奮闘。その活動が実を結び、現在は「新日本プロレスが苦しい時を支えた最大の功労者」「プロレス人気復活の立役者」として評価されている。苦境に陥っても諦めることなく挑戦を続けてきた不屈の魂の持ち主の言葉には、ビジネスにも通じるヒントが隠されていた。

諦めない人はいつか結果を出す

はじめに、棚橋氏が考える「仕事ができる人」とはどんな人かを質問した。

「僕が『こいつはできるやつだな』と思うのは、何事においても諦めない人ですね。物事に対しての結果は、満足できるときもあれば、どんなに頑張っても良いものにならないことだってあります。でも、その結果に至るまでの過程で自分が努力していることを、自ら言葉にしなくても第三者に察してもらえるような人─プロレスで言うなら、道場での日々のトレーニングを『こいつはしっかりやっているな』と他人に思わせる選手。そういう選手を僕は評価しますし、いずれ何らかの結果を出すだろうと感じます。どんなときでも決して諦めず、自分の目標に向けてチャレンジを続けているからです。
 これはプロレスの競技性にも通じる話です。試合で格好良くフィニッシュを決めて勝利することはもちろん大事。しかし、単に勝った、負けたではなく、相手に技を掛けられたら掛け返す、その一連の技の応酬が見どころであり、試合終了までの全てを見ていないと試合そのものと選手を評価できない。そういう競技なんです。
 もちろん、プロレス以外の仕事でも同じだと思います。思うような結果が出なくても、そこに至るまでの時間を大事に、有効に活用して、諦めずに努力を続けた人は、次につながる何かを必ず得られているはずです」

入門後に迎えたプロレス人気の低迷期

1999年に新日本プロレスに入門した棚橋氏。当時は闘魂三銃士(とうこんさんじゅうし)と呼ばれる、1984年に同期入門した武藤敬司氏、蝶野正洋氏、橋本真也氏によるユニットが活躍し、多くのファンの人気を集めていた。

「あの3人がいらっしゃったこともあって、当時の新日本プロレスはどの試合会場も満員で、とても人気がありました。だから入門したばかりの僕も、このまま頑張っていればエースになれると思っていたんです。
 でも、あの頃は空手やキックボクシングなど立ち技の選手が戦う『K-1』や、総合格闘技の『PRIDE』などプロレス以外の格闘技も人気で、2000年代に入ると、他競技の勢いにプロレスが押され始めていました。そして、景気の波や会社の経営なども影響し、新日本プロレスはスター選手が退団するなど、人気が下り坂になっていって。僕はその時に、『あれ、まずいぞ。俺、このままではスターになれないかもしれない』と危機感を抱くようになっていました。
 当時の会社の経営状況が、自分自身も新日本プロレスの人気を取り戻すために、何かをしなければならないと思うようになったきっかけでした。とは言っても、何をすれば良いのか。所属する選手の顔ぶれを見てみると、自分がやらなくても誰かがやってくれるような気もする・・・。だけど、そんな甘えを見せている場合ではない。意を決して、『先頭に立って新日本プロレスを盛り立てていくのは、俺の他にはいない!』と自分を奮い立たせました」

一般的には、会社の経営状況が悪化すると、転職を考える人も多い。自分がその場で力を出すよりは、新しい環境に身を移すほうが楽だからだろう。しかし棚橋氏は、新日本プロレスを離れようとはしなかった。それは一体、なぜなのだろうか。

「やはり、僕が子どもの頃からプロレス好きで、中でも新日本プロレスが大好きだったからでしょうね。会社の方針転換などで経営状況が悪くなり、『このままで新日本プロレスは大丈夫なのか』と不安になったことはありました。でも、好きだからこそ入門したわけですし、実際、あの当時も会社を嫌いにはならなかったんですよ。新日本プロレスは僕に、プロレスが楽しい競技だと教えてくれたんです。僕には、プロレスと、新日本プロレスに対して恩義があった。だからこそ、たとえ会社が傾こうとも、昔から憧れていた大好きな団体から逃げるわけにはいかなかったんです」

かつてはテレビのゴールデンタイムで試合が放映されていたプロレスも、人気が下がり始めてからは深夜枠に移動。放映前に眠りにつくことが多い小中高生は、ファンの中心層ではなくなっていった。棚橋氏はそんな状況を、「むしろビジネスチャンスだ」と思ったという。

「プロレスを見ていない人は、新日本プロレスにとって潜在的な顧客だと思えたんですよ。プロレスは面白いんです。だから、試合観戦さえしてもらえれば、子どもの頃の僕がそうだったように、夢中になってくれる人は絶対にいるはず。そのために僕は、いかにして観戦してくれる人を増やすべきかを考えました。
 実際に取り組んだのは、非常に地道なことでしたね。まず、会社にいる同世代の社員と仲良くなるよう努めました。特に営業担当さんと。彼らは各地でプロモーション活動をするのが仕事の1つです。だから、もし地方で興行する場合は、『事前のプロモーションに僕を連れて行ってほしい』と頼みました。同世代なので、お互いに言いたいことを言いやすかったですし、信頼関係もスムーズに築けましたね。そして、いざプロモーションに誘ってもらえたら 『行きましょう!』と二つ返事で現地に向かうようにしていたんです」

 

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