巻頭企画 天馬空を行く

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創業者からの言葉を全て書き留める細かさ

20130301tenma_ex001 実は名古屋時代に、堀江氏は同社の創業者で当時の社長、鍵山秀三郎氏と深い関わりを持つようになった。
「名古屋時代は会社の寮に入っていました。鍵山社長は社員との関係を持ちたい、社員の意見を聞きたいという気持ちが非常に強い方で、名古屋に来たときは必ず寮に泊まられるんです。夕食も寮の食堂でとる。夕飯の席では一緒にいろんな話を聞かせて頂いたものです」

寮といっても6、7人しかいない小さな寮である。社長が来るからといって社長のための部屋があるわけではなく、社員の部屋で就寝するのである。

「それも、私の部屋に泊まるんですよ(笑)。6畳くらいの部屋に布団2つ並べて。そこで2人っきりで寝るんです。読書が好きな方で、夜遅くまで本を読んでおられましたね。私は電気を消さないと寝られないたちで、消灯のタイミングを見計らうのにとても苦労しました(笑)」
鍵山氏とは具体的にどんな話をしたのかという質問に、堀江氏は1冊のノートを見せてくれた。

「言われたことをずっとノートに書き留めてましてね。それをよく見直していました。ほかの人は大体、おっしゃられたことに『はぁ』『へぇ』って返事をして終わりでしたが。だから私はよく聞いていたほうだと思います。
たまに鍵山社長が社員に『このあいだ言った○○なんだけどね・・・』みたいに尋ねることがあるんです。みんな忘れていますが、私はメモのおかげでよく答えることができました。それで『こいつは聞いてるな』って思われたはずです。メモしてるだけで実はあまり聞いてないんですけどね(笑)」

ノートには、鍵山氏の発言した様々な言葉がメモされている。「古くて捨ててしまったものもありますが、どれだけあったか分からないくらい、いろいろと教えを頂きました」と言う堀江氏が、ノートを繰りながら一例として挙げたのが「企業文化」についての走り書きであった。

「創業者は、掃除を中心にした企業文化というものを非常に大事にされていた方です 。すぐに売上や利益に繋がらないんだけど、そういったことは大事だ、と年中お話を受けてました」

負の遺産を背負って社長就任

創業者の鍵山氏が1998年に一線を退いたのち、2004年ごろから業績が傾き始める。そうした中、堀江氏は鍵山氏から直々に社長就任の指名を受けることとなる。経営を銀行に委ねるかどうかという、まさに瀬戸際の時期であった。

「まあ、やる人がいなかったから私に白羽の矢が飛んできたわけです。古い人間は皆辞めていき、プロパー(生え抜き)で残っていたのは、実際私くらい。
銀行に任せるか、我々で何とかするかという二者択一でした。銀行が入れば、会社は確実に残ります。しかし、私たちが築いてきた企業文化、例えば掃除のような売上に直結しないものは次々と廃止されるでしょう。不採算店は閉鎖され、多くの社員がクビになるでしょう。『社員をクビにしない』というのも私たちの企業文化の1つです。そうした、今まで大事にしてきた企業文化が全部なくなってしまうかもしれなかった。
創業者はものすごく苦労してイエローハットという企業文化を作ってきたので、それを残したいという思いが非常に強くありました。プロパーである自分なら企業文化がどういうものかが分かっているし、他の人よりも大事にするだろう、というふうに判断されての抜擢だったと思います」

堀江氏本人は当時どのような心境だったのだろう?

「ただひと言、『困ったなぁ』ですよ(笑)。でも、銀行が入っても実務は分からないから、結局一番詳しい私のところに難しい仕事が回ってくるんです。業績の悪い店舗を閉鎖するのであとの処理を・・・という具合にね。結果、社員やフランチャイジーとの板挟みです。それはたまらない。
辞退したいという気持ちもありました。でも、そうしたら社員やフランチャイジーに『堀江は私たちを捨てて逃げ出した!』と言われる・・・。どっちも茨。困ったなぁってずっと悩んでいましたよ」

ヘンなことを止めて、戦いに勝てる本業に特化

社長就任を受けて、堀江氏は内外に「1年半での黒字化」を明言する。「困った」と言いながらも、やればできる自信はあったのである。

「あれをしよう、これをしようというプランは前からたくさん考えていましたね。権限を与えられた暁にはすぐ実行しようと」

しかし、赤字企業をたった1年半で本当に黒字にできると思っていたのか。
「社内のどこに問題があるかはよく分かっていました。長いこといますし、いろいろな部署を見てきていますから。問題があるというのは、ヘンなことをしているということなんです。そのヘンなことをやらなければ、それだけで黒字になります」

実際に当時は、介護事業に手を出したり、多角経営を模索していた向きもある。

「私が社長になって取り組んだことの1つは『本業に特化すること』です。介護などはもちろん専門外ですが、それ以外にも中古車販売に注力したり、大型バス等の修理工場も持ったりしていました。そうしたものを全部止めて、ウチの会社の得意なところ、戦ったら勝てるというか、知識や経験が活かせるところで勝負することに専念しました。
人事についても春、秋と2度も異動があった。そんなに頻繁に異動させられたら、業績や成果を上げるよりも自分のポジションはどうなるんだってことばかり考えてしまう。だから廃止しました」
また当時は、守るべき掃除の文化も悪影響になっていたようだ。「修繕費がかさんでいたんです。ちょっとの汚れでもお金をかけてしまう。なので、しばらくは我慢しようと通達しました。そうしたら修繕費がガクンと落ちましたよ」

ただし、業績が良くなった時点で「我慢」は止めにした。あくまで一時のカンフル剤だったのである。

社員の士気が上がるなら、多少の無理も覚悟する

とはいっても、社長1人の踏ん張りで業績が回復するわけでもない。社員やスタッフの気持ちも1つにまとめる必要があるだろう。

「広告宣伝・販促費は、通常は業績が悪くなったら削るものですが、逆に私は無理をしてお金をそこにつぎ込みました。テレビでイエローハットのCMが頻繁に放映されれば、お客さんは店のスタッフに『CM観たよ』と声をかけてくれる。そうすればスタッフたちも自然と活気づきます。
給料についても、就任早々から上げると約束しました。実際、立て直すまでの期間も給料はずっとアップさせました。『あの社長はちゃんとやってくれるんだな』と社員が私を信用してくれなければ、それは仕事にも影響しますからね」

実際に社会人になったばかりの堀江氏自身が影響を悪く受けた。最初の苦い体験がここに活かされている。
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