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クックピット 株式会社 代表取締役社長 / 白湯師 本間 義広

本間 義広 HONMA YOSHIHIRO
服部栄養専門学校卒業後、和食の板前として飲食業界に入る。10年間の板前修業を経て、外資系レストラン「レッドロブスター」に転職。8年にわたって勤務し、最後の5年間はスーパーバイザーとして活躍する。あるとき、東京・西麻布の博多ラーメン店「赤のれん」の味に感動し、1992年12月から同店での修業をスタート。その中で「この味を広めたい」という思いが募り、多店舗展開へ乗り出す。1994年2月には、大手企業の協力を得て「福のれん」として店舗を展開、12年間で18店舗まで拡大する。培ったノウハウとスープの製造技術を活かすべく、2006年8月、業務用スープの製造・販売を主業務とするクックピット(株)を創業した。

ラーメン業界は、その趣向性の強さゆえ大手チェーンの寡占化が進まず、外食業界の中でも一際、個人経営の新規開業が盛んであるという特徴を持つ。専門店舗数は、全国に約3?4万店。しかし、それだけに競争は激しく、年間3000〜4000店がオープンするのに対し、それと同数の店舗が廃業に追い込まれている。そうした中、ラーメンの味を決めるのに特に重要な要素となる「スープ」に着眼し、日本で初めて業務用ストレートスープの商品化を行ったのが、クックピット(株)である。同社の創業社長・本間氏の言葉から、事業成功の秘訣、そして新たな挑戦を続けるバイタリティの根源を探る。

1杯のラーメンとの出会い

日本で初めて業務用ストレートスープの商品化に着手した、クックピット(株)。現在はラーメン店を中心に独自開発されたスープを提供しており、導入店舗数は2016年時点で1400店にものぼる。まずは、このビジネスモデルの考案に至るまでの歩みを、クックピットの創業者であり、40年以上にわたって飲食業界に携わってきた本間氏に伺った。

「調理師の専門学校を出た後、そのまま和食の板前修業に入りました。厳しい丁稚奉公の中、徒弟制度で鍛えられ、住み込みで7年、足かけ10年和食の世界に身を置いたのです。その後は、和食から洋食の世界に移ることになります。きっかけは、当時板前として勤めていたお店の目の前に、アメリカ発のシーフードレストラン『レッドロブスター』の日本1号店がオープンしたこと。家族を連れて一度食べに行ってみたところ、外国人の店員さんたちがとてもフレンドリーな接客をしてくれて、その活気ある雰囲気に惹かれたんです。それで、思い切ってそこに転職すると、料理人としての経験を買われたのか、研修を終えたばかりの段階でいきなり店長に任命されました。当初は英語もろくに話せないものだから、本当に苦労しましたね。ただ、常連さんの名前を覚えて、メニューにない注文にも柔軟に対応するなど板前時代に学んだ接客を続けていたら、自然と評価が上がっていって。それから埼玉の店舗を任されると、そこではレッドロブスターの売り上げ世界記録を達成しましてね。気付けばスーパーバイザーにまでのぼりつめ、最終的に13店舗を見るようになっていました」

世界的な大手飲食チェーンのスーパーバイザーとして、飲食業界でエリート街道をひた走っていた本間氏。30代にして、年収は当時の業界でもトップクラスだった。しかし、そんな氏の運命をあるラーメン店が変えることとなる。

20170101_tenma_ex01「ある日、西麻布の交差点を六本木方面に向かって歩いていたら、行列のできているラーメン店があったんですよ。『赤のれん』という、博多ラーメンを出すお店でした。一度通り過ぎて、でもなぜか気になって引き返し、行列に並んでラーメンを食べてみました。するとね、これが美味しかったんです。スープが3層に分かれていて、一番上が上質なコラーゲン、その下が肉片。肉片の下が飲み口のスッキリした上等な甘味のあるスープ。『一体これはどうやってつくるんだろう?』──思わず料理人の血が騒ぎました。それで翌日、スープのつくり方をどうしても知りたくて、『お店で働かせてください』と頼み込みに行ったのですが、そもそも求人募集も掛けていないし、経歴や年収を見て、僕がラーメン店に転職することを不審がられたのか、あっさり断られました(笑)。でも諦めきれないからその次の日にも行って、やはり断られて・・・。それならばと、1ヶ月後に再チャレンジしてみたんです。そうしたら、僕の熱意が通じたのか、たまたまアルバイトが辞めたタイミングだったのか分かりませんが、親父さんが『洗い場ならやらせてやる』と言って雇ってくれました。これが、1992年のことです。当時35歳にして、時給800円からのスタート。家族には会社を辞めてラーメン店に勤めていることを半年間黙っていましたから、しばらくはスーツで出勤して、着替えて厨房に立っていたんですよ」

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