一歩を踏み出したい人へ。挑戦する経営者の声を届けるメディア

Challenge+(チャレンジプラス)

巻頭企画天馬空を行く

株式会社 佐田 代表取締役社長 佐田 展隆

佐田 展隆 SADA NOBUTAKA
1974年生まれ、東京都杉並区出身。一橋大学を卒業後、東レ(株)に入社して営業職に就く。2003年、父からの要請により(株)佐田に移り、2005年には代表取締役に就任。破綻寸前の会社を黒字化するも、莫大に抱えた有利子負債の問題を解決すべく2007年、金融機関の債権放棄と共に会社を再生ファンドに売却することを決意。経営コンサルタントを経て2011年、当時のオーナーから再び立て直しを任され(株)佐田に復帰。社長としてオーダースーツの工場直販事業に注力、現在は直販店「オーダースーツSADA」を36店舗運営している。

オーダースーツ初回限定1万9800円〜という衝撃的な価格を打ち出し、直販のショールームを増やし続けている(株)佐田。1923年に佐田社長の曽祖父・佐田定三氏が服飾雑貨卸商として創業し、オーダースーツの製造会社として業績を伸ばしてきた企業だ。今回は、オーダースーツ業界自体の縮小などにより数々の苦難に見舞われるも、2度にわたる危機を乗り越え直販体制を整えてきた同社の佐田社長に話を伺った。

営業部の体質改善から着手

佐田社長は父の要請により2003年、29歳で(株)佐田に入社後、会社の危機を2度も救った人物だ。既成品スーツを販売する大手量販店に押されてオーダースーツ業界自体が縮小傾向にあったなか、どのようにして危機を乗り越えてきたのかを、まずは伺った。

「私は1999年に一橋大学を出て東レ(株)に就職し、営業職に従事していました。それから4年が経ったある日、(株)佐田の社長を務める父から唐突に『帰ってきてくれ』との連絡がありまして。私は長男なので将来的には家業を継ぐ可能性があるかもしれないという意識はありましたが、3人兄弟のうち誰かが継げばいいと思っていましたし、声がかかるにしてももっと先の話だろうと考えていたので、正直びっくりしましたね。
 なぜ私が戻らなければならなかったかというと、後継者をハッキリさせないと銀行から融資が受けられないくらい、経営が逼迫していたからです。売り上げの半分近くを占めていた百貨店・そごうさん、マイカルさん、長崎屋さんが立て続けに倒産したことが、経営不振の主な要因でした。
 いざ入社してみると、会社が存続しているのが不思議なくらい、あまりにもひどい経営状態で、根保証に入れられた私は正直『ふざけるな、俺の人生を終わらせやがって』と思いました。それまでは良好な親子関係を築いてきたつもりでしたが、入社後は会社でもしょっちゅう、胸ぐらを掴むくらいの勢いで口論していたことを覚えています」

会社の立て直しを期待されたのではなく、保証人として連れ戻された格好となった佐田社長。しかし再建への情熱と持ち前の胆力、前職で培った営業力で組織改革に着手していく。

「金融機関の支援を受け続けないと潰れる状態だったので、父からは『まずは経理部でお金の動きを学ぶように』と言われました。でもそれは結局、応急処置にすぎません。根本的な問題は営業赤字にあるわけですから、私は『営業をやらせてくれ』と志願したんです。そして実際の営業の現場をみてみると、御用聞き営業や接待営業が染みついていたのか、全く危機感がないことに愕然としました。事業部の予算も分からない営業社員さえいたのですが、経営が厳しい以上、組織にメスを入れていかねばなりません。そこで当時の営業本部長には一段上のポジションに登って頂き、私が営業部の陣頭指揮を執ることになったのです」

ちょうどその時期、(株)佐田は国内3工場のうち仙台工場以外の2工場を閉めて中国・北京工場の規模を拡大。コスト競争力を高めるための、佐田社長の父が下した決断だった。

「北京工場の製品はコスト競争力のある商品でしたが、2003年当時は“メイド・イン・チャイナのオーダースーツなど売れるわけがないだろう”という風潮があり、弊社でさえそう考えている営業マンは多かったですね。しかし業績的には生きるか死ぬかの瀬戸際、工場を遊ばせておくわけにもいかないですから、とにかく受注を取ってくるしかない。そこで個々に粗利をベースとした予算意識を持たせ、『新規開拓』『提案営業』を合い言葉に受注をかき集めていったんです。もう、本当に死に物狂いでした」

再び舞い戻ってきた経営の手綱

佐田社長の鬼気迫る方針に営業社員が目覚め、業績が徐々に回復しつつあった(株)佐田。そうしたなかで2004年、直販店となる「オーダースーツSADA」の1号店が神田にオープンする。

「もともとは卸先のテーラーさん向けに、リーズナブルかつ雰囲気の良い店づくりをサポートするための、文字どおり“ショールーム”としてつくられた店舗でした。直にお客様に販売するわけではないので、立地も一等地とはかけ離れた場所にあったのです。
 ここを直販の拠点にしようと考えたのには、2つの理由がありました。1つは“メイド・イン・チャイナのオーダースーツでも売れる”ということを営業社員に示すため。当時からオーダースーツ業界におけるコスト競争力は日本一でしたから、若い人向けに絞って低価格で展開すれば必ず売れると確信していたのです。
 そしてもう1つは高齢により廃業するテーラーさんが増えており、このままだとオーダースーツ業界がますます縮小してしまうとの危機感からでした。直接、エンドユーザーと繋がっておかなければ未来はないと。そこで、当時は今ほどインターネットは普及していませんでしたが、若い人ならWeb上の情報でも抵抗がないと考えて楽天さんにショップを出して集客すると、結構いい反響が得られたのです。これは、自社の方向性に手応えを感じた出来事でもありました」

こうして改革に次ぐ改革で大幅な営業黒字を叩き出すも、莫大な有利子負債の利息を払うだけで利益が消えてしまうことから、黒字化した会社と従業員を守るために2007年、佐田家は私的再生により経営から手を引くという苦渋の決断をする。しかし運命のいたずらか、コンサルティング会社の社員として別の人生を歩み始めていた佐田社長の元へ、再び経営権が舞い戻ってくることになった。

「私が社を去ってからは再生ファンド会社の経営のもと順調に業績を上げていたのですが、リーマンショックによってファンドが解散となり、さらにその3年後の東日本大震災により仙台工場が被災し業績が落ちたことで、当時の会社のオーナーから経営権を引き継いでほしいとの打診を受けました。そこで(株)佐田の状態を調べてみると、私が去った頃と比べて売り上げが3分の2まで落ちており、私の父やコンサルティング会社の先輩からは『立て直すには厳しすぎる』と言われました。過去の経緯を知る妻には、泣いて引き留められました。
 でも、私が決断していないにもかかわらず『社長が戻ってくるのを心待ちにしていました、ぜひもう一度がんばりましょう』と電話を掛けてくる若い社員が何名もいるなど、現場では私が戻ることが既定路線のようになっていて・・・情にもろい私は、そこまで待ち望まれているのに復帰のオファーを受けなかったら男が廃ると心から思い、もう一度、会社の再建に尽力してみようと決意したんです。不思議なことにちょうどその頃、毎日のように亡き祖父が夢枕に立ちました。今思うと、会社に戻ることは私の運命だったのかもしれません」

そうして2011年に(株)佐田に戻った佐田社長。世界的金融危機や大震災により業績が低迷するなか、佐田社長はどのようにして再び会社を蘇らせたのだろうか。

「卸先の新規開拓は前回の立て直しの際に軒並みやりきっており、さらに高齢化が進んで廃業するテーラーさんが増え始めていました。こうした状況下において会社を立て直すにはどうしたらいいか──熟考の末、“直販事業を拡大していくよりほかない”という極めてシンプルな結論に達したんです。しかしそれは卸先からすると“商売敵になるのか”という話で、それ以外の選択肢がないとはいえ、イバラの道にほかなりません。
 この問題は様々な業界で見受けられ、例えば印刷会社は自社で広告代理店をやったほうがより利益が見込めますが、既存の広告代理店の仕事を奪うことになり、その暗黙の了解を乱すようなことをすれば他社から仕事が受注できなくなることが目に見えているので、やりたくてもできないのです。ですから通常、川上の会社が川下に出るのはほぼ不可能に近いミッションなんですね。
 ただ、先ほども申し上げたとおりオーダースーツ業界は高齢化が進んでおり、もちろん周囲の反発は受けましたが話すと分かってくださるテーラーさんもかなりいたので、その意味では本当にありがたかったですね。それで直販事業に力を注いでいくという決意表明として、あえてテーラーにとって最も刺激的な地である新宿の好立地に出店したのです」

20160901_tenma_ex001

 

1 2 3