巻頭企画 天馬空を行く

元女子モーグル日本代表 上村 愛子

上村 愛子 UEMURA AIKO
兵庫県に生まれ、2歳のときに長野県へ。幼い頃からスキーに親しみ14 歳でモーグルと出合い、翌年にはナショナルチーム入り。高校3年生で出場した長野オリンピック(1998 年)を皮切りに数々の大舞台でキャリアを積みながら日本を代表するモーグルスキーヤーに成長。2007-08シーズンワールドカップでは日本モーグル界で初となる種目別年間優勝を達成。翌シーズンの世界選手権では2冠に輝く。私生活においては2009年、アルペンスキーヤーの皆川賢太郎 氏と入籍。オリンピックには5度出場し、1998年の長野から2014年のソチまで5大会連続入賞。そのシーズンを最後に現役を引退した。

フリースタイルスキー・女子モーグルの第一人者であり、冬季オリンピックにおける注目選手でもあり続けた上村愛子さん。5度目の挑戦で冬季オリンピック自己タイの4位という結果に終わったものの、最後に最高の“愛子スマイル”をお茶の間に見せてくれたのは記憶に新しい。とかくアスリートは放物線を描くように選手としてのピークを迎え、歳を重ねパフォーマンスが下がって引退するものだが、上村さんがトップレベルのまま選手生活を終えることができたのはなぜか。その秘訣や現役時代の胸中に迫った。

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アルペンスキーからモーグルへ

世界のトップモーグルスキーヤーとして、長きにわたり第一線で活躍してきた上村さん。まずは、スキーとの出会いを伺った。

「私は兵庫県で生まれたのですが、生まれつき心臓に病を抱えていたこと、またテニスなどのスポーツが大好きだった両親が『ペンションをやりたい』という思いを持っていたことから、2歳のときに大自然に囲まれた長野県へ家族で引っ越したんですね。実際に両親がペンションを構えたのはスキー場のすぐ目の前。ですから私がスキーをするようになったのはごく自然な流れでした。たまたま近くにそうした環境があっただけで、引っ越しをしていなければスキーヤーにはなっていなかったと思いますね(笑)」

先天性の病気、そして両親の決断がきっかけで慣れ親しむことになったスキーだが、そのどんな部分に魅力を感じたのだろう。

「小さいころは私の兄や、ペンションにアルバイトに来ていた大学生のお兄さん、お姉さんに雪山へ連れて行ってもらい、スキーの滑り方を教えてもらったのをよく覚えています。滑る前は頭のなかで色々と考えるんですけど、ひとたび滑り始めたらスピードに付いていかないと転んでしまうスポーツなので、周りのことを気にしていられないというか、とにかく必死にスキー板に乗ることだけを考える・・・そのなかで芽生えた“スキー板やスキーブーツを自分の体の一部にしていく感覚”が、すごく大好きでした。その思いは今でもずっと変わりません」

そうしてスキーにのめり込んでいき、小学校の作文には「アルペンスキー(競技スキー)の選手になってオリンピックに出たい」と書いたことも。実際にはご存知のとおり、アルペンでなくフリースタイルスキーのモーグルでその夢を叶えることになる。

20151101_tenma_ex01「アルペンスキーがコンマ何秒の世界でタイムを争い順位が決まっていくのに対し、モーグルを含めたフリースタイルは『スピード+技術点』で評価される採点競技。それでなぜモーグルをやろうと思ったかと言えば、単純にアルペンよりもモーグルのほうがいい結果を残すことができたというのが大きいですね。小さい頃からやっていたアルペンスキーでは同学年のなかでいつも5、6番目くらいの成績だったのに、モーグルではビギナーが集まる小さな大会だったのですが、初出場でいきなり優勝してしまったんです。最初は着地のことを考えてジャンプが縮こまったりスピードが上がらなかったりするものなんですけど、私は単純に“早く滑って大きく飛ぼう”とだけ考え思いっきり滑ったら、そこを評価して頂けました(笑)。それがすごく嬉しかったですし、モーグルならひょっとして大きな大会に出られるようになるのかなと。それが中学2年生のときですね。
 ちなみにモーグルの競技を初めて間近で見たのは14歳になったばかりの冬、カナダへ旅行したときです。アルペンスキーをしていたときはスキー場のコブが苦手だったのですが、モーグルの選手は真っ直ぐに降りてきて、想像もできない滑り方でそのコブとコブのあいだをスイスイ滑っていくのです。とても衝撃的でしたし、その技術があることを知った瞬間に『やってみたい』と直感的に思いました。実はそのときに見た日本人選手が、のちに長野オリンピックで金メダルを取ることになる里谷多英さんだったのですが、今振り返ってみると運命のようなものを感じますね」

冬季オリンピック、5大会連続出場

上村さんはモーグル選手として、4年に一度の冬季オリンピックに5回も出場した。結果は長野(1998年)7位、ソルトレイクシティ(2002年)6位、トリノ(2006年)5位、バンクーバー(2010年)4位、ソチ(2014年)4位。結局メダルには届かなかったが、歳を重ねるごとにパフォーマンスを上げていったことは賞賛に値する。またその結果、多くの人々に感動を与えたのは紛れもない事実だ。

「初めての長野オリンピックでは、勝つための準備をしたわけでなく『世界で戦える選手になりたい』という気持ちで過ごしました。そしてその大会で里谷多英さんが金メダルを取ったことで、『私もメダリストになりたい』という目標が芽生えてきたんです。そのあと4大会にわたりオリンピックに出場させて頂き、その都度できるかぎり最善のことをして、毎回私のなかでは完璧だという状態でその日に臨むんですけど、いざ大会が終わってみると結果が残せず反省点や改善点がたくさん出てきて・・・。要するに私の成熟の度合いがすごく遅かったので、5大会も出ることになってしまったのかなと(笑)。
 今思い返せば、自分より上の選手を追いかけ続けた20年間だった気がします。若い頃は周りの選手に勝ちたいという一心で、選手生活の後半のほうは技術やメンタル面を徹底的に鍛えることを目標にチャレンジし続けてきて、あっという間に時が過ぎたという感覚です。自分にできない技術を身に付けていくのって、シンプルに楽しいことですよね。ただ、理想があるのだけれどなかなかそれに辿り着かず・・・『もっと精神的に強くなりたい』『もっと速く滑りたい』など、色々な部分でもうちょっとだけ今より良くなるのではないかと思えたことが、長く続けられた秘訣ではないでしょうか。特に私の場合はモーグルの公式ルールや採点基準がコロコロと変わっていた時期に戦っていて、絶対に正しいというものがなかったので、オリンピックのたびにプレースタイルを変えざるを得なかったことも影響していると思いますね」

4年に一度の冬季オリンピック。それは自分の弱さとの戦いでもあった。

「技術的なことやメンタルの部分、いわゆる“心技体”が揃わないとオリンピックで勝つことなどできないと本当の意味で感じるようになったのは、かなり大人になってからでした。私は昔からコーチに言われたことはすぐに実践できる器用な選手でもあったのですが、4年に一度という晴れ舞台に心技体のピークを持っていくことはなかなかできませんでしたね。正直ものすごいプレッシャーで、「いつもの練習どおりにやればできる」という気持ちで戦える場所ではなかったような気がします。ですから私にとってオリンピックはある意味、4年に一度のタイミングで “自分の弱さ”に気付く、あるいは再認識できる場所でもありました。
 特に若い頃、私が苦労したのはメンタルの部分。例えば『協調性がある』『気遣いをする』『人のペースに合わせる』といった私の生来の性格も、世界で勝つためには弱さでしかありません。“自分勝手だと思われたとしても自らの思いを貫かねば満足のいく練習や準備などできるはずがない”と頭では分かっていても、控え目な性格からかそれができず、レースの直前になって『もっと我を通せばよかった』なんて反省してしまって・・・。ひとたびそう考えてしまうと自信なんて持てなくなるし、それなのに世界中の人々が注目していると思うと、もう手の震えが止まらなくなるんです。毎年行われるモーグルのワールドカップや練習では平常心でプレーできるのですが、オリンピックではなかなかそれができない。歳を重ねるごとにメンタルが強くなり、毎回1つずつ順位を上げることができましたけど、年齢による体力の衰えもあって、結局メダルには手が届きませんでした」

 

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