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巻頭企画天馬空を行く

スイミングアドバイザー 岩崎 恭子


岩崎 恭子  IWASAKI KYOKO
スイミングアドバイザー
静岡県沼津市出身。姉の影響で5歳よりスイミングスクールに通い始め、14歳で出場したバルセロナオリンピック(1992年)女子200m平泳ぎにおいて、競泳界史上最年少で金メダルを獲得。続くアトランタオリンピック(1996年)にも代表選手として選ばれ、2大会連続のオリンピック出場を果たした。1998年に現役を引退後、児童に向けた水泳の指導方法を学ぶためアメリカ留学なども経験する。現在は水泳の指導・水泳の楽しさを伝えるためのイベント出演などを中心としつつ、メディア・トークショー出演、執筆活動なども手がけている。シドニー・アテネ・北京・ロンドンオリンピックにおいては、オリンピアンの視点で現地の情報を発信するアスリートキャスターとしても活動した。2011年に第1子を出産、母親としても日々奮闘中。

中学2年生、競泳史上最年少となる14歳と6日目にして夏季オリンピック金メダルを獲得し、一躍時の人となった岩崎恭子さん。バルセロナオリンピックの「競泳女子200m平泳ぎ」で1992年7月27日に樹立したその最年少記録は、世界競泳において22年経った今も破られていない。また、日本選手団は過去に夏季オリンピックで個人・団体合わせて130個の金メダルを獲得してきたが、その受賞者のなかにおいても最年少だ。そんな今なお燦然と輝く偉業を成し遂げた岩崎さんに、2度のオリンピック経験を経て感じたこと、水泳を通じて見えてきたことなどを語って頂いた。

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金メダルへの道程

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岩崎さんは3姉妹の次女。3つ歳の離れた一番上の姉が水泳を習っていたことから、その影響で自身も5歳の頃より地元のスイミングスクールに通い始めたという。では、岩崎さんがスイミングを始める契機となったお姉さんは、何の影響で水泳を始めたのだろうか。

「1970年代頃から全国各地にスイミングスクールが爆発的に増え、姉が幼稚園生の頃はちょっとした水泳ブームだったんですよ。特に地元では、小学校に上がる前の子どもたちの半数はスイミングスクールに通ったことがあるというくらいメジャーな習い事だったので、姉が水泳を始めたのもごく自然な流れだったと思います。
 それを促したのは、やはり両親ですね。姉は幼少期に身体が弱く喘息気味だったので、身体を鍛えるためというのが大きな理由だったと思います。それに体操とか水泳って、生後6ヶ月くらいから習い事として始める子もいるくらい、早い年齢からできるじゃないですか。立地的なことで言えば沼津市は海に面している地域なので、早い段階で泳ぎを習得したほうが何かと安心ですしね。
 それで実際に姉はスイミングを始めたことで、身体が強くなったし風邪も引かなくなったんです。私は姉が大好きで、単純に姉と同じことをやりたいと思っていましたし、周りの友達の多くもスイミングスクールに通っていたので、自分自身が水泳を始めることに対して何の違和感もありませんでした。ちなみに静岡県は、戦後の水泳界で次々と世界記録を打ち立て“フジヤマのトビウオ”の異名を取った古橋廣之進さんの出身地。水泳にゆかりのある地域なのかもしれません」

姉の真似をしたくて何気なく始めたスイミングだった。が、次第に自らの才能に気付いていく。

「水泳の実力というのはタイムが全てなんです。スイミングスクールの記録会から始まり、地域の2、3校が集まっての大会、市の大会、県大会と規模が大きくなっていき、上の試合に出るためには好タイムが必要になります。私自身、小学校低学年くらいのときは何となく周りの子よりも速いのかなと思っていたくらいで、『お姉ちゃんにはかなわないな』という意識のほうが強かったですね。今考えれば3歳も離れているので当たり前のことなんですけど(笑)。
 そのうち姉が全国大会に出場するようになった頃には、『お姉ちゃんのように頑張れば私も全国大会に出られるんだろうな』なんて、漠然と考えていました。だから自分がすごいという意識は全くなくて、大きな大会に参加するのもごく自然なことというような感覚でしたね。」

岩崎さんが金メダルを獲得したのは「200m平泳ぎ」。平泳ぎの種目のなかでは最長のカテゴリだ。この泳法、距離に辿り着く過程というのは、意外なまでにシンプルなものだった。

「国際水泳連盟が定める『女子平泳ぎ』には50m・100 m・200 mの3つがあり、私のなかで50mと100 mは短距離というイメージ。私はスピードよりも持久力に強みを持っていて、長い距離のほうがタイムのレベルが高かったので、おのずと200mの選手として選ばれるようになりました。
 そもそも平泳ぎの選手になったのも、たまたまタイムが良かったからという単純な理由です。小さいころは記録会で全種目の泳法のタイムを計るのですが、どういうわけか平泳ぎだけいい記録が出たんですよね。楽に泳げるという意味ではクロールが一番好きですが(笑)。
 ちなみに平泳ぎだけ『引いて・伸びて』という特殊な動きも求められるため、4泳法のなかで最も技術が必要と言われています。自由形(クロール)・背泳ぎ・バタフライは水を『掻いて』進むという部分で共通しているので、オリンピックのレベルでも自由形と背泳ぎ、自由型とバタフライといった2種目をこなす選手はいるのですが、平泳ぎの選手にはほとんどそれがありません。この事実だけを見ても、平泳ぎの特殊性が分かると思います」

パワーに劣る日本人選手が平泳ぎで好結果を残しているのは、パワー不足をテクニックで補っているからだという。また当時のレース映像を見るとよく分かるが、岩崎さんは追い込み型。後半に強いイメージがあるのだが、それはどのような理由からなのか。

「私は後半にスピードを上げると思われがちですが、感覚としては同じくらいのペースを持続しているだけで、むしろ周りの選手がバテてくるからそう見えるのだと思います。海外の選手はどちらかというと前半型が多く、ある程度のペースで飛ばしていって後半持てばいいという先行逃げ切り的な考え。でも私は不思議といつのまにか、最後まで一定のリズムで泳ぐスタイルが身についていました。
 とにかくペース配分を崩さないように泳ぎたいとの思いから、例えば50mプールで何回掻けばターンのタイミングなのかというのは常に把握していました。実際、オリンピックのときもその数を数えながら泳いでいたんですよ。確か飛び込んだときは21回、その後は27回だったかな・・・ちょっとうろ覚えですけどね(笑)」

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