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株式会社 光岡自動車 代表取締役会長 光岡 進


光岡 進 Mitsuoka Susumu
株式会社 光岡自動車 代表取締役会長
1939年、富山県生まれ。学業修了後は自動車メーカーで乗用車やトラックの販売を手がける。1968年に独立して光岡自動車工業を創業し、1979年に法人化。1982年に発売した光岡自動車初のオリジナルカー「ゼロハンカー・BUBUシャトル」は大ヒットを記録した。1987年に発表したレプリカ車「BUBUクラシックSSK」の開発を機に普通自動車の製造を開始、以降は「ラ・セード」「ビュート」「ガリュー」など、イングランド調をベースにした他の日本車メーカーとは一線を画す車を発表する。1996年リリースの「ZERO1」にて国からの型式認定を受け、日本で10番目の乗用自動車メーカーとなった。2002年より代表取締役会長に就任し、現在に至る。

他の国産自動車メーカーとは一線を画す独創的な車づくりで、多くのファンを獲得してきた(株)光岡自動車。今日に至るまでには様々な紆余曲折があったが、創業から一貫して根底にあり続けたのは、自動車、そして仕事に対する光岡進会長の純粋な想いだった。その想いや情熱が事業、そして「MITSUOKA」のブランド名を冠する数々の自動車へと姿を変えていき、富山から日本全国、さらには世界へと伝わっていく・・・。中小企業としての矜持とものづくりへの想いについて、光岡会長にお話を伺った。

インタビュー・文:東川 亮

「好きな車を売りたかった」

(株)光岡自動車は、日本で10番目に認定を受けた国産乗用自動車メーカー。他メーカーとの最大の違いとして挙げられるのは、オートメーションの生産ラインを持たず、車の全てをクラフトマンによる手作業で仕上げていることである。当然ながら大量生産はできないわけだが、こだわり抜かれたデザインと一台一台丹精を込めてつくり上げられた車は、多くの自動車ファンの心を掴んで離さない。
 そんな光岡自動車の創業は1968年。創業当時は自動車メーカーではなく、一介の街の自動車販売店だった。それまで自動車メーカーの営業マンとして働いていた光岡会長は、ある転機を迎えたことで独立を決意する。

 「僕は会社を辞めて独立する前はトラックを売っていた。材木屋さんだとか、建築関係だとか、いろんなところにニーズがあるわけだけど、そういうところはたとえ会社のオーナーと契約できたとしても、現場で働くドライバーさんたちが言うことを聞いてくれなかったりするんだ。『○○社のトラックのほうが馬力があっていい』ってね。そういう運転手をなだめすかし、時には飲みにつれていったりもしたもんだが、次第にそんな営業に嫌気がさしてきてしまってね。僕は接待営業なんかじゃなく、好きな車の魅力で勝負したかったんだ。そうするためには、もう会社を辞めて自分でやるしかなかった。勤めていたほうが楽だったけど、そこはもう仕方ないよね。
 そこからモータースとして光岡自動車は出発するのだけど、商売は最初は小売りからスタートするわけですよ。誰かがつくったものを仕入れて、売る。それでうまくいくと、今度は卸をやりたくなる。さらにうまくいけば、今度は自分の名前を付けた商品を売りたくなる。そうした想いは誰しもが持っているものなんだけど、もちろんステップが上がるほどリスクは大きくなるわけだから、みんなどこかで妥協をする。でも、僕はどこかで『自分の車をつくりたい』と思い続けていたんだ。自分の中の、理想の車をね」

機を窺っていた光岡会長に転機が訪れたのは、1980年代初頭のこと。この頃、日本ではとある車の一大ブームが訪れる。光岡自動車が最初のピークを迎えた時代である。

 「当時流行った車に、ミニカーと呼ばれる車があったんだ。50ccのエンジンを積んで、車検がなくて原付免許で車道を走れる車だね。これだ!と思ってさっそく開発を開始したのが、最初の自社ブランドカー「BUBUシャトル」。よく、子どもが自動車のことを「ブーブー」って言うじゃない?名前はそこから付けたんだ。最初の頃は工場長と2人で『月に20台も売れたら楽しいぜ』なんて話していたんだけど、実際の注文はその5倍から10倍。それだけ注文が来たから僕らもすぐに生産ラインを整えないといけないと思い、富山県に5000坪の工場を建てたんだ。しかし、それは今にして思えば勘違いだった。舞い上がっていたんだと思う。
 それからしばらくして、1985年だったかな、国土交通省が安全面を考慮して、ミニカーの免許を普通免許に切り替えたんだ。最大の利点である原付免許で乗れるという手軽さが失われたわけだから、販売台数は激減。最終的には工場も閉鎖し、在庫は持っていても損になるから地元の専門学校とかに寄付して全部処分しちゃった。今思えばもったいないことをしたと思うけどね」

失敗から得たチャンス、そして復活

大きな痛手を被った光岡自動車。光岡会長もしばらくはモチベーションを失い、出社してからぼんやりと新聞を読むだけという日々が続いたという。そんな様子を見るに見かねた家族からの提案が、光岡自動車復活の糸口となる。

「仏さんみたいになってた僕を見るに見かねた嫁さんが、『1回、世界中を回ってきたら』と言ってくれたんだよね。それならまずは、うちのミニカーを販売していたアメリカに行こうということになった。そこで現地を視察すると、アメリカではカマロやトランザムといった高級車が日本よりもはるかに安いということが分かった。よくアメリカに行っていた弟(※光岡章夫氏、現・光岡自動車 代表取締役社長)からもこうした車を日本で売りたいと相談を受けていて、試しに持って帰ってきたら、これがまたよく売れた。それで鼻息荒くなって、当時残していた東京・青山の拠点を中心として、アメリカ車の中古車と新車の販売を本格的にやり始めたんだ。そこから、うちの営業所は全部アメ車に切り替えたよ。きっかけを得られたのは、嫁さんがアメリカに行けって言ってくれたおかげだね(笑)」

さらに、光岡会長はもう1つのヒントをアメリカでつかむ。そのヒントこそが光岡自動車の現在を支える、オリジナルの車づくりである。

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「ロサンゼルスに行った時に、古い車に新しいフレームを付けて走っている変な車を見たんだ。その場で運転手とコンタクトを取ってどこで買ったかを聞き出し、フロリダの工場に飛んだよ。その場で1台購入して日本に持って帰り、何とか日本でも同じことができないものかと試行錯誤してレプリカカーをつくった。試乗してみたら、これが楽しいんだよね。僕が乗って楽しいんだから、きっと他の人も楽しいのだろうし、それなら商品化すれば売れるんじゃないかと思った。そうしたらこれがヒットしたんだ。
 商売って、失敗してもその後に絶対何かしらのチャンスがあるんだ。僕の独立だって失敗からだったし、そもそも独立なんてしたくなかったわけだからね(笑)。世の中、難しく考えると何もできない。簡単に考えて、行動してみる。それでいいと思うんだよね」

「BUBU50」シリーズの生産中止からアメリカ車輸入販売への転向を経て、メルセデスベンツSSKのレプリカカー「BUBUクラシックSSK」を発表するまで、わずか1年半の出来事である。こうした事業におけるフットワークの軽さは、現在にまで続く光岡自動車の強みであると言えるだろう。
 
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