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吉本興業 株式会社 代表取締役社長 大﨑 洋


大﨑 洋
吉本興業 株式会社
代表取締役社長
1953年生まれ、大阪府出身。関西大学社会学部卒業後、吉本興業に入社。数々のタレントのマネージャーを担当する傍ら、プロデューサーとしての研さんを積む。プロデューサーとして「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げ、多くの人気タレントを輩出する傍ら、音楽事業、スポーツマネジメント事業、デジタルコンテンツ事業など、数々の新規事業を立ち上げる。2001年に取締役、2005年に専務取締役、2006年に取締役副社長、2007年に代表取締役副社長という昇進を経て、2009年に代表取締役社長に就任。吉本総合芸能学院(NSC)開校時の担当時代には、ダウンタウンや今田耕司ら、現在の吉本の中核を担う新人たちを指導した。

1912年(明治45年)4月1日の創業以来、100周年を迎えた吉本興業(株)。最も古い歴史を持つ芸能プロダクションとして日本の芸能を支え続け、今や吉本芸人なしにはテレビ番組が成り立たないほど、ことお笑い芸人のマネジメントにおいて絶大なる信頼を得てきた。今回は、業界最大手の複合企業として次の100年を見据える、吉本興業(株)代表取締役社長 大﨑洋氏に話を聞いた。 100年、である。ひとつの企業が1世紀にわたり事業を継続させるには、途方もないエネルギーを要するだろう。吉本興業も1912(明治45)年の創業以来100年のあいだ、時流という波風にさらされながら、幾多の難関を乗り越え確固たる社会基盤を築き上げてきた。  吉本興業の事業は言わずもがなエンターテインメント、昔で言えば大衆芸能の分野だ。芸能はいわば水もの、生活インフラに必要とされる事業というわけではない。社会情勢、経済情勢の影響を受けやすく、かつ常に斬新さを感じさせる素材が求められる。それは何も芸人だけに限られたことではない。社員に至っても、常に新境地を目指し続けられる人材がそろっていなければ、すぐに時代の波に取り残されてしまう。そんな芸人や社員にとっての箱舟が、吉本興業なのである。  その箱舟の船頭として、2009年から舵をとっているのが、代表取締役社長の大﨑洋氏だ。ダウンタウンをはじめとする、現在のお笑い界で主役として活躍する実力者を多く育ててきた人物として、業界内にて「吉本に大﨑あり」と言われ続けてきた。激流が渦巻く時代のなか、大﨑氏が率いる吉本は今後、どこを目指していくのか。荒波を乗り越え続けてきた箱舟を、次にどこへ向かわせようとしているのか。その胸中を探る。

インタビュー・文:新田哲嗣 写真:大木真明

漫才ブームの立役者
社長になる

芸人以外で、“近代吉本”の礎となった功労者は数いるが、そのなかでもとりわけ別格と言えるのが、現在代表取締役社長である大﨑洋氏だ。「大﨑氏と当時の上司によって1980~1982年の漫才ブームが築かれた」という伝説は、もはや芸能関連の業界のなかで知らない人はいないほどの逸話となっている。 そうした礎をもとに、大﨑氏は東京支社の支社長として、関西を基盤としていた吉本の名を一気に全国にとどろかせるべく、若手芸人の発掘、コンテンツ制作の積極化など近代的なエンターテインメント企業としての地盤を固めた。そして2009年より代表取締役に就任。まずは自身の吉本でのキャリアを振り返ってもらった。

「まあ、あちこちでいいように言って頂いていますけど、入社した当時はもうロクでもない社員の代表例でしたよ、私は(笑)。大阪で生まれて大阪で育って、だから大阪の会社に就職した。それが吉本だったのですが、当時、私らの世代は無気力・無関心・無責任の、いわゆるしらけ世代。そやからね、なかなか仕事で前向きに取り組めなかったんです。当時の先輩や上司は、『こいつ、このままやったらアカンのやないか?』と思ったんでしょう、入社したときにいきなりかまされましたよ。『大﨑、お前は人に負けて悔しくないんか?人の3倍働かんとあかん』とね」

人に負けて悔しくないんか?
人の3倍働け

大﨑氏いわく、子どものころから勝ち負けにこだわる性格ではなく、大学時代も比較的自由気ままに過ごしてきたという。しかし、入社した時期は高度経済成長による苛烈な競争のさなかである。また奇しくも『お笑いスター誕生!!』『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』など、高視聴率番組が軒並みならぶ、漫才ブーム誕生の年の新入社員である。社内でも、取り残されるべくして取り残される社員と、成長著しい社員に分かれていく。

「20数年、同じ上司の下でやってきまして、もう何かをやれと言われたら二つ返事でやってきたようなありさまですから、新人時代はなおさら言われるがままでした。ただ、3倍働けと言われても何を3倍どうしたらいいのか分からなかった。とりあえず仕事の密度は別として時間だけは3倍やってみようと思いまして。普通の人は規定就労時間で8時間働きますから、私は24時間。それに見合う成果が出たかどうかは疑問ですけど、それが当たり前のようになっていったんです。やれと言われたからやる。それに変化が出てきたのは、タレントや部下、後輩らから色んな相談をされるようになってからですね。それがいつごろからなのか、私自身はあいまいですけど、『こんな僕でも頼ってくれるんだったら、一緒にやろうか』とそれだけ考えるようになって。子どものころから、自分の中で『よし、ほんならやろうか!』と思わなければ、本気になれないところもありましたから、彼らの相談が私のスイッチになった。そこからですね、仕事を真面目に・・・というと語弊がありますけど、それなりに仕事に取り組むようになったのは」

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