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タレント 相原 勇
1986年の芸能界デビュー以来、歌手・女優・タレントとして活躍し、1992〜1994年には、ミュージカル「ピーターパン」の主役を務めた相原さん。その明るく、アクティブな人柄を通して、弊誌カンパニータンク上でも経営者の方々に元気を伝えている。「Interviewer's Eye」第5回では、そんな相原さんにお話を伺った。

インタビュー:カンパニータンク企画部 文・編集:カンパニータンク編集部

高校生でホリプロのスカウトキャラバンに応募し、中国・四国地区代表として決勝まで残った経験を持つ相原さん。そのときに見た、ミュージカル「ピーターパン」が大きく運命を変えたという。

相原 生まれて初めて見たミュージカルが「ピーターパン」だったんです。それまではミュージカ ルって何?っていう感じでしたが、見た瞬間に身体中に衝撃が走って、涙が溢れ出てきて─、そのときに「私は絶対、ピーターパンになる!」って決めたんで す。そこからはピーターパンになるためには、どうしたらいいのかを考える日々。とりあえず東京に行くために、東京の大学を受験することを考えたり、とにか く無我夢中でした。
そんな折に知り合いの伝で、広島のタウン情報雑誌の表紙を飾るお話を頂いたんです。そのご縁で、映画を作るからクラスメイト役の子を探しているという オーディションの話を聞き、履歴書を事務所に送ってみたら通って。そこから、「本気でうちの事務所に所属してアイドル歌手としてデビューしない?」という 話になり・・・でも私がやりたいのはミュージカル。当初は、「アイドル?」と納得いかないところもあったのですが、17歳という年齢を考えたらもう時間は ない─、と。東京に行くのであれば目的があったほうがいいと考え、その道へ進むことにしたんです。

―すぐに上京を考えられたのですか?

相原 実は、おニャン子クラブのオーディションを受け、合格も頂いていたんです。だから上京し てもすぐに仕事があるということもあって、高校を卒業した3月31日に東京へ。でも上京してみると、事務所の社長は、「おニャン子クラブの仕事を断った」 と言うんです。それは、おニャン子クラブの会員は専属のレコード会社も雑誌社も全て決まっていて、仕事の幅が狭まってしまうという理由から。ならば、確実 性があって、契約金も高い、ソロデビューの道を選ぼうと。
でも、実際はおニャン子クラブが大ブームになっていった。当時は、あんなにもおニャン子クラブがブレイクするとは誰も想像していなかったわけですが、も しも私が会員になっていたら今とは全く違う人生を歩んでいたでしょうね。私は1年間レッスンを受けたり、オーディションを受けたりという生活でデビューが 1年遅れて。やっとデビューできたと思いきや、その年はおニャン子クラブのメンバーがソロデビューを果たした時期で、それ以外でソロデビューしたアイドル たちは全く売れなかった。同時期に所属していた事務所も倒産。一瞬にして、何もなくなってしまい、途方に暮れた時期でした。今になって考えれば、当時の事 務所は経営が危ないことが分かっていたからこそ確実な契約金を得るために、私にソロデビューの道を薦めたのでしょうね。

―事務所のとった策に巻き込まれていってしまったんですね。

相原 この状況を受けて、親は私を実家に連れ戻そうとしましたが、「ピーターパンをやりたくて東京に行ったのに、目標は達成できていない」。そう伝えたところ、「東京の大学に送ったと思って4年間は待つ。でも4年経っても成功できなかったら帰ってこい」と言われたんです。
時代は変わって平成になった年がリミットの4年目。そのときに、「三宅裕司のいかすバンド天国」の司会者としてのお仕事を頂くことができたんです。そこ から、多くの方に知って頂けるようになって、インタビューを受けるような機会も増えてきました。そのときに、「将来の夢は?」と聞かれると、必ず「ピー ターパン」と答えていました。でも、自分のなかでは、「この仕事は制作を手がけているホリプロに所属していないとできないんだな」と分かっていたんです。 だから、緑の洋服を着てなくても、テレビで私のことを見た人が、「勇ちゃんって、まさにピーターパンのイメージぴったりだよね」と思ってくれればそれでい い、と考えるようになって─、ショートカットもピーターパンのイメージに。

―それが相原さんのアイデンティティにもなっていったのですね。

相原 名前も男の子でも女の子でも通用するようにしたいと思って、「相原勇」という芸名にした んです。“勇”は勇気を持って前に進もうという、自分を励ます想いから。そして、苗字の“原”はfield、これは“人生”を表す言葉。本名は小原という んですが、小さい原より、愛がいっぱいある人生のほうがいいなと思って。“私”=“I”と“あなた”=YOU”、この2つの言葉を名前に入れて、私は1人 ではないという想いを込めた名前にしたんです。

─そして、実際に3年連続でピーターパンを演じ、夢を叶えられたわけですが。

相原 夢を叶えるまでに8年かかりましたが(笑)、19歳のときに事務所が倒産したショックが 大きくて、「大人は汚い」、「もう誰も信じない」、そういった想いが私のピーターパンの役作りに直接繋がっていったと思います。だから1年目のピーターパ ンは、まさに私のその想いが反映された、やんちゃで元気なピーターパンでしたね。ずっと想い続けた夢が叶ったということで、勢いで演じてしまったところも あったと思うんです。でも、2年目になって、1年目のなかでは見えていなかったことが見えてきて。舞台のこと、共演者のこと、いろいろと考えすぎてしまっ たんです。少し萎縮したピーターパンだったかもしれないですね。そして3年目になって、相手を受け入れられるピーターパンになった。ピーターパンは、「こ うありたい」っていう強い想いを持っているけれど、子どもたち、フック船長、ティンカーベルといったそれぞれのキャストにもそれぞれの想いがある。だか ら、それを強要するのではなく、自身の望むように生きてほしいなって。ピーターパンって、一人ひとりのなかにいて、みんな捉え方が違うんですよ、きっと。 でもそれでいいと思っているんです。未だにセリフ一つひとつから学ぶことも多いですよ。今、演じたらまた違うピーターパンになるでしょうね。実際、10 代・20代の頃の私は上ばかりを見ていた。でも上にあがりたいからこそ、しっかりと大地を踏みしめなければいけませんよね。年を重ねて、関わる人が増え、 いろんな経験を積んで今の私がいるんです。

─ピーターパンが相原さんの人生そのものに繋がっているんですね。

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