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俳優 川﨑麻世
13歳で芸能界に足を踏み入れて14歳でデビュー、2016年で芸能生活40周年を迎えた川﨑麻世さん。アイドル歌手出身でありながら現在は国際的俳優として名を馳せ、舞台・ドラマ・バラエティ番組などで精力的に活動中だ。今回はそんな川﨑さんにご自身の半生を振り返って頂きながら、俳優としての思い、「COMPANYTANK」のインタビュアを通じて感じることなどを伺った。

インタビュー・文・編集:カンパニータンク編集部

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“フリマネ”で開かれた芸能界への扉

──まずは、川﨑さんが芸能界に入られるまでの経緯を教えてください。

 小さい頃から人前でモノマネや歌を披露するのが好きで、12歳の頃、関西の読売テレビで放送されていた『パクパクコンテスト』という視聴者参加型番組に応募したんです。曲に合わせて歌や踊りを真似る、いわゆる“フリマネ”を競う勝ち抜き制の番組だったのですが、僕は西城秀樹さんなどの曲を真似ながら順調に勝ち抜き、最終的にグランプリを受賞することができました。これで晴れて番組卒業となるかと思いきや、ありがたいことにファンの子がたくさん付いてくれて、その子たちの声で番組のレギュラーになることができたんです。それをきっかけにいくつかの芸能事務所からスカウトが来て、そのときにジャニーズ事務所からもお声がけ頂きました。それから程なくして、不二家「ハートチョコレート」のCMの出演依頼を頂いたことを機に上京。中学2年生の夏休みのことでした。

──若くして親元を離れ単身上京されるというのは、相当な覚悟のいることだったと思います。

 いや、そもそも僕は夏休みが終わったら地元の大阪に帰るつもりだったんです。そのため、当時はボストンバッグ1つで上京しました。でも、東京でジャニーズ事務所の社長のジャニーさんとお会いしたところ、一度合宿所に来るように誘って頂いて。さらにその翌日には「明日、コンサートに出ちゃいなよ」と言われ・・・。そうこうしているうちに、いつの間にかジャニーズ事務所に正式に入所していたという感じです(笑)。それ以降も挨拶回りやオーディション、撮影など次から次へと課題を与えられるという目まぐるしい日々が続く中で、結局は転校手続きも行い、本格的に東京暮らしがスタートしていったんですね。

──それから14歳でレコードデビューされ、瞬く間に人気アイドル歌手の道を駆け抜けていかれたと。

 とはいえ、決して歌や踊りだけをやっていたわけではないんですよ。演技もバラエティも幅広く経験させるというのが、ジャニーズ事務所の育成方針。当然僕も例外ではなく、実際に事務所に入って最初に受けた正式なオファーはテレビドラマの仕事でした。もちろん演技なんて初挑戦。台詞を覚えたり、大阪弁のイントネーションを出さないように気を付けたりと、当時の自分には難しいことばかりでしたね。それ以降も基本的には歌の仕事と並行して、役者やテレビの仕事をこなしていきました。

 
アイドルから本格派俳優へ

──その後、舞台俳優としての活動が増えていったきっかけとは?

 1983年に劇団四季の『CATS』に出演したんです。本格的なミュージカルへの出演はそれが初めてのことでした。アイドルとしてコンサートや舞台に出ていたときは、極端な話、ちょっとくらい歌詞を間違えたり転んでしまったりしても、むしろ「貴重なものが見られた!」と許してもらえました。でも当然、そんな優しい世界とは訳が違う。舞台を作り上げるための稽古の厳しさや、ステージ上の張り詰めた空気、会場の緊張感・・・そういった独特な雰囲気には圧倒されましたね。ただその分、やり遂げた後には大きな自信に繋がったのも事実でした。

──『CATS』での貴重な経験が、川﨑さんのその後の役者人生に大きな影響を与えたわけですね。

 そうですね。『CATS』の公演を終えた後、本場のミュージカルに触れたくてアメリカに渡ることにしたんです。当時、僕の頭の中では単純な思考回路が働いていて、「よし、次は世界だ。ブロードウェイだ!」と思ったわけです(笑)。でもそんな僕を、ジャニーズ事務所も全面的に応援してくれました。
 そして渡米してからは、ブロードウェイなどの作品のオーディションをたくさん受けて、本場の空気を肌で感じながら学ぶ──そんな修業の日々でしたね。

 
海外の舞台作品への挑戦

──その中で出演が決まったのが、『スターライト・エクスプレス』ですよね。

 はい。ワールドツアーだったので、オーディションのためにロンドンに渡ったあと、1987~1988年にかけて日本とオーストラリアで公演を行いました。
 ちなみに日本と海外とでは、色々とギャップも大きくて。例えば海外では「ユニオン」と呼ばれる俳優の組合の力が強く、大概は制作側より演者側の声のほうが大きいんです。だから日本ではありえないことですが、舞台で仮に演者たちが納得できない部分があれば、ボイコットが起こることもしばしば。それと、海外の舞台ではアンダースタディ──代役がたくさんいるので、色々な人が僕の代わりに舞台に立つチャンスを窺っていて。僕もプレッシャーを受けながら、緊張感を持って演じ切ることができましたね。

──海外公演での成功という素晴らしい経験を持って帰国されましたが、その順風満帆な流れの中、程なくしてジャニーズ事務所を退所されることになります。

 帰国して1年ほど経った頃でしょうか。妻のカイヤと出会い、子どもができたんです。それで話し合いのもと、事務所に迷惑をかけないためにも辞めることにしました。その後、出産のために再びアメリカに渡ったのですが、正直言って、当時は先の人生を思うと不安に押しつぶされそうでした。でも無事に出産が終わり、生まれたばかりの娘と対面したとき、僕が指を差し出したら娘が握り返してくれたんです。そのとき、まるで娘に「頑張って」と言われたような気がして──。「これまでは自分のために一生懸命やってきたけど、これからはこの子のために生きよう」と、自分の中のスイッチがパチンと切り替わりましたね。それで帰国後、また仕事を堂々と頑張ろうと、お世話になっていた女優・大空眞弓さんの事務所に入れて頂くことになったんです。

 
観客に愛と感動と希望を

──それからは俳優として着実にキャリアを積み上げてきた川﨑さん。作品ごとに様々な役を演じられるわけですが、役作りはどのように行っているのですか?

 役の中に完全に入り込んで生活を送るんです。性格や生い立ちなども細かく調べ、喋り方や立ち居振る舞いを考える。例えば僕は右利きですが、その役が左利きであれば左利きで生活します。そうやって、いかに早く「自分」を捨てられるか。それが僕の役作りの方法ですね。
 ただ、それだけストイックに役を作り上げていっても、舞台稽古中は毎回、何らかの壁にぶつかります。細かな点で言えば、「どうしてもここの台詞だけしっくりこない」とか「このシーンだけ表現が上手くいかない」といったものです。そうした引っ掛かりを乗り越えて初めてスタートラインに立てるわけですが、そこに到達するまでの道のりが実は一番苦しくて長い。新たな作品に挑むたび、その繰り返しです。

──そうした大変な稽古を耐えてでも「また舞台に立ちたい」と思える、その原動力はどこにあるのでしょう。

 お客様が喜んで感動してくださり、拍手やスタンディングオベーションが起こる。あの笑顔や声援、涙をダイレクトに受け取ったとき、純粋に「頑張って良かった」と思えるんですよ。稽古中の苦しみが全て喜びに変わる瞬間です。
 舞台は映像作品と違い、やり直しが利きません。それに同じ内容の舞台が何度も上演されるとしても、お客様にとってはその1回1回が“初めて起きたこと”。だから毎回、新鮮な気持ちで挑んでいく必要があるんです。舞台を介して目の前のお客様に直接、「愛」「感動」「希望」を届けられることが、舞台の魅力であり醍醐味だと僕は思います。

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