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タレント  鶴久 政治
国民的ロックバンドとして一世を風靡した「チェッカーズ」。そのサイドボーカルを務めていたのが、ミュージシャンの鶴久政治さんだ。現在は作曲やプロデュースといった音楽活動に加え、ドラマやバラエティ番組への出演など多岐にわたる活動を展開している。そんな鶴久さんに、これまでの歩みやチェッカーズの結成秘話、マルチな活動の原動力などを存分に語って頂いた。

インタビュー・文・編集:COMPANYTANK

20150201h02-01


 国民的バンド「チェッカーズ」のサイドボーカルとして活躍した鶴久政治さんに、まずは音楽との出合いから伺った。

 小学生の頃から、音楽好きの母親に連れられてコンサートに行っていたんです。初めて見たのは、美川憲一さんのライブ。そのときは男性がメイクをして舞台に上がり、観客から黄色い声が飛ぶ“ショー”の雰囲気が、とにかくショッキングだったことを覚えています(笑)。

──子どもの頃から音楽が身近にある環境で育ってこられたのですね。では、バンドに興味を抱いたのはいつ頃ですか?

 中学の頃、友達の間でバンドを組むのが流行ったんです。とはいえ皆、楽器は高くて買えないから、バンドマンのお兄ちゃんがいる子から楽器や音響機材を借りてきてもらって(笑)。全く上手くなくても、音を出すこと自体が快感でした。
 そんな風に過ごす中で、中学3年生のとき、友達と一緒にダンスパーティに遊びに行ったんです。すると、そこに当時高校1年生だったフミヤさんがいました。それが、僕と藤井フミヤさんの最初の出会い。彼と仲良くなったところ、実はフミヤさんの通っていた高校がたまたま僕の入ろうとしていた高校で。それで入学後、チェッカーズのメンバーとも知り合ったんです。僕が入学した時点で、すでにチェッカーズは結成されていました。僕はというと、最初は小学生の頃から続けていた野球に打ち込んでいたんですね。ただ、たまにチェッカーズのライブに行くと、当時は1960年代の洋楽に日本語の歌詞をつけてカバーしていたりと、すごく格好良くて。それでいつの間にか、僕の中でチェッカーズは憧れの存在になっていたんです。だから、高校1年で「野球部を辞めてチェッカーズに入りなよ」とメンバーに誘ってもらえたときには、即座にバンドを選びました。

──そうして観る側から演奏する側に立場が変わったわけですが、実際に加入されてみていかがでしたか?

 本当に刺激的で、楽しい毎日でしたよ。当時から地元ではそこそこ人気があって、高校生ながらローカル局の音楽番組にレギュラーで出させてもらっていました。今思えば、福岡には“めんたいロック”と呼ばれたバンドブームがあったり、チューリップ、海援隊、井上陽水さんなど錚々たるミュージシャンを輩出していたりと、先輩方が築いてくれた音楽の土壌があったのでしょうね。

 1980年の結成以来、地元で着実に人気を獲得し、1983年には全国デビューを果たすチェッカーズ。一見、「高校生バンドが音楽のプロを目指して上京する」といった熱いストーリーを想起させるが、実際はどうだったのだろうか。

 デビューのきっかけは、全国のアマチュアバンドが競うコンテストでした。メンバーの何人かが3年生になって、就職したらこれまでみたいに精力的な活動はできなくなるだろうということで“思い出づくり”のような感覚でエントリーしたんです。すると、なんと地区予選で優勝。九州大会に進んだらそこでも優勝。あれよあれよという間に気付けば全国大会までも優勝していました。
 メンバーの中にはそこまで意気込みのある人はいなかったのですが、それがむしろ審査員の目には、肩の力を抜いて楽しんでいるように映り、それが高評価につながったのかもしれませんね。実際、歌も演奏も決して上手くはなかったものの、エンターテインメント性は高く評価されたんですよ。あとは1バンドにつき持ち時間が10分ある中で、どのバンドも時間ギリギリまで詰め込んでいたのに対し、僕たちは短い洋楽のカバーを5分くらいで演奏して終わらせていた。それで審査員の方々も肩透かしを食らったのかもしれませんね(笑)。そんなこんなでデビューが決まり、一番若いメンバーの高校卒業を待ってから上京しました。僕が19歳のときのことです。

──スピーディな展開ですが、デビュー当時には戸惑いも多かったのでは。

 もちろんありましたよ。特にデビュー曲の「ギザギザハートの子守唄」は、それまで洋楽のカバーをやっていた僕らにとって抵抗があって。でも、実はあの曲はプロデューサーが長く温めてきたものだったそうで「メロディも歌詞もピッタリだから、絶対に面白い現象が起こる」って言うんです。後日談ですが、どうやら僕たちの反抗的な態度が、曲のイメージに合っていたんだそうです(笑)。
 プロデューサーは最初から「インパクトのあるデビュー曲で世間の注目を集めて、2曲目は親しみやすい曲でヒットを狙う」という算段をつけていて、結果としてその通りになりました。デビューするからには何とか売れたくてメンバーも必死でしたし、周りも全力でサポートしてくれたのが大きかったですね。

──2曲目の「涙のリクエスト」で大ヒットを記録して以降、次々とヒット曲をリリースしていきます。鶴久さんとしては、売れた要因は何だったと思われますか?

 売れている作曲家やプロデューサーに「売れるコツって何ですか?」と聞くと、決まって「そんなものはないから、とにかく曲を出しなさい」と言われます。この仕事は“人”の“気”持ちと書いて「人気商売」だから、売れるかどうかは人が決めること。つまり、リリース前の話し合いに時間をかけるのではなく、リズムよく曲を出していくのが売れるための必要条件でした。そしてチェッカーズも例に漏れず立て続けに曲をリリースしましたから、それも功を奏したということなのでしょうね。
 あとは、当時の詞や曲をつくってくれた人、髪形や衣装を考えてくれた人が皆、ちょうどその業界で売れ始めた新進気鋭の方々だったんですね。そうした色んな人の勢いやエネルギーが「チェッカーズ」を通して日本中に広がった。それが、ヒットの要因だったのかもしれません。

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