畑山さんは17歳のデビューから破竹の勢いで勝利を積み重ね、翌年にはボクサーの登竜門と言われる新人王トーナメントでMVPに輝き、20歳で東洋太平洋チャンピオン、23歳で念願の世界チャンピオンのタイトルを獲得する。
畑山 東洋太平洋チャンピオンになった頃から、生活スタイルはがらりと変わりました。良いスポンサーにも恵まれて、今の同じランクのボクサーでは考えられないくらいの収入を得ていたんです。世界タイトルマッチでは、最高で1億円を超えるファイトマネーを頂いたこともありました。
―幼い頃の「お金持ちになる」という夢を拳1つで叶えられたわけですね。思い描いた将来を実現されてみて、心境の変化などはありましたか?
畑山 ギスギスしなくなったな、ということはありますね。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」じゃないですけれど、好かれるようになりたいな、とは思うようになりました。ただ、同時に「万人受けではいけない」とも思っていたんですね。僕はテレビなどのメディアでは割と生意気な発言をしていましたが、あれは僕のビッグマウスを「いい」「面白い」と言ってくれる人が3割いればいい、と考えたうえでのセルフプロデュースだったんです。そうしたコアなファンがついてくれれば、きっと忘れられてしまうことはないのかな、と。
―実際に、今でも畑山さんのファンは多いと感じています。
畑山 本当にありがたいですよね。世界チャンピオンになったことで「畑山隆則」という人物を覚えてくれている人がいるからこそ、引退して事業を始めたばかりの僕に対して大企業の経営者の方々からお声がけを頂けた、ということもあります。当時は30歳になる手前くらいだったんですけれど、普通はそんな若造が大会社の社長となんて会えないですよ。その意味も含めて、チャンピオンになって本当に良かったと感じています。
世界チャンピオンとなり人気の絶頂にいた畑山さんは1999年6月、人生初のKO負けによってタイトルを失い、一度は現役を退く。しかし1年後、1階級上の世界タイトルに挑戦するという前代未聞の復帰戦を行い、見事勝利を収めた。
畑山 僕は16歳から7年間、青春の全てをボクシングに捧げてきました。そして世界チャンピオンになってお金も手に入れ、試合に負け、「もういいかな」ってなってしまったんですね。1999年の7月に引退発表をし、その年はずっと遊んでばかりの生活でした。でも、面白くないんです。やっぱりしっかりとした仕事をした後だからこそ、お酒も旨い。当座の生活の心配はなかったにせよ、またボクシングがやりたいと思うようになりました。「男が一度言ったことを、舌の根も乾かぬうちに撤回するのはどうなんだ」と自問自答もしました。ただ、どうせ一度きりの人生なんですから、格好つけても仕方ないなと。
―復帰戦は、いきなりの世界タイトルマッチでした。
畑山 タイトルマッチをやりたかったとか、そういう気持ちは当初は一切なかったんです。とにかく、現役時代に燃え尽きることができなかった、という後悔を払拭したかった。負けた試合は、相手の様子を5Rかけてしっかりと分析し、6R目から勝負をかけようと思っていたのですが、その5Rでパンチをもらって負けてしまったという試合でした。つまり全力を出し切れていなかったんです。だから僕にとっては復帰戦の舞台は何でもよくて、とにかく1試合でもいいから自分の悔いが残らないくらいやりきろうと思い、年が明けてから復帰に向けてみっちりとトレーニングを積みました。結果的に復帰戦が世界タイトルマッチとなり、勝った僕は日本人史上4人目の2階級制覇を達成したということになるんですけれどね。
――その過程において、見えてきたものはありますか。
畑山 人って現金なものだな、と(笑)。分かっていたことなんですが、成功している時には周りに人が寄ってくるんです。実際、僕が最初に世界チャンピオンになった時には親戚が増えて、ダメになった時は減った(笑)。僕が復帰戦で世界タイトルに挑戦すると発表した時も、メディアには「無謀だ」「奇跡が起きても勝てない」などと、辛辣な評価をされたものです。でも、僕は勝ちました。そんな経験をしてきているから、僕は「いい時に天狗になってはいけない」と気づくことができたのです。実際に立場が変わることで良くない方向に振る舞いが変わる人って何歳になってもいるし、それは格好悪いと僕は思う。僕は若いうちにそうした経験をし、学ぶことができて良かったですね。