
インタビュー・文・編集:カンパニータンク
畑山さんがボクシングを始めた理由、それは非常に単純明快なものであった。
畑山 僕は小さい頃から、「自分は将来、何をやればお金持ちになれるか」ということを考えていたんです。とは言っても特に勉強ができるわけでもなければ親が経営者だというわけでもなかったのですが、スポーツだけは万能でした。
当時は野球をやっていたのですが、野球の世界では、ドラフト上位で指名されてプロ野球の世界に入れれば、契約金だけで何千万円というお金がもらえることを知った。だったらプロ野球選手になろうと思って野球を頑張り、中学時代はエースで4番、活躍を認められて地元である青森県の強豪・青森山田高校に特待生として入学しました。そこでレギュラーを取り、甲子園に行けばプロになれると思っていたのですが、上下関係の問題で野球を辞めてしまったんです。
―夢が断たれた形になったわけですが、そこからの切り替えというのはどのように?
畑山 野球を辞めて、これから何をして生きていこうかと考えていた時に、たまたまテレビで辰吉丈一郎選手の試合を見ました。彼も昔はすごくやんちゃだったそうですが、チャンピオンになった。僕も腕っぷしには自信がありましたので、「俺ならもっとやれる」と思ったんです。そうと決めたら一直線で、学校を辞めてアルバイトでお金を貯め、ボクシングで一旗揚げるべく東京に行ったんです。「これで成功できなければ人生は終わり」。それくらいのことは考えていました。
―そこから厳しいボクシング人生が始まると。最初の頃はいかがでしたか?
畑山 最初は大手のジムに入ったのですが、僕が上京した1990年代初頭は辰吉選手の活躍などもあってボクシングのブームが来ていた頃で、練習生が何百人もいたんです。そんな中でしっかり指導をしてもらえるのは、アマチュアである程度実績を残してきている選手ばかり。僕のような未経験者には声すらかけてもらえませんでした。ただ、僕は自分に素質があると思っていた。「自分は間違っていないんだ」と思ってジムを移り、そこで僕の師匠、柳和龍先生と出会ったんです。先生は僕に「俺がお前を世界チャンピオンにしてやる」と言ってくれました。自分の素質を認めてくれる人とようやく出会えて、嬉しかったですね。
―まさに、その出会いが人生を変えた。
畑山 はい、柳先生に出会えたからこそ、僕は世界チャンピオンになることができたと思うんです。経営でもなんでも一緒だと思うんですけど、人との出会いというものは本当に大事なんですよね。例えば会社であれば、いい取引先であったりいい部下であったり、そうした人に出会えるかどうか、その出会いを活かせるかどうかだと思います。その意味で、僕は幸運でした。