
インタビュー:カンパニータンク企画部 文・編集:カンパニータンク編集部
甲子園出場を皮切りに、オリンピック出場(大学時)、ドラフト1位指名など、野球のエリート街道をひた走ってきた今岡誠さん。まずはプロ入りするまでの心境を聞いてみた。
―プロを意識されたのは?
高校生のときやね。間近でプレーを見てきた先輩や他チームの選手がプロに進んだことで、意識し始めました。「どれくらいの実力があればプロ入りできるのか」というのをリアルに感じられたことも大きかったと思います。高校のときもプロからの誘いはあったんですが、ドラフトで下位指名になることは分かっていたので、当時の監督と相談したうえで大学野球のメッカ、東都大学リーグに所属する東洋大学に進んだんです。そこで活躍すれば上位指名に繋がるし、オリンピックに出場できるかもしれないという思いもあったね。
―実際、大学4年次にはアトランタオリンピックに出場されています。
僕はショートで選出されたんですが、そのポジションにはほかに青山学院大学の井口(現:千葉ロッテマリーンズ)、日本生命の福留(現:阪神タイガース)がおり、初めは補欠やった。でもチームは苦戦を強いられ、負けたら予選敗退というところまで追い込まれたときに初めてチャンスをもらってね。そこから打ちまくって(打率.435 2本塁打を記録)本戦に出場することができ、スタメンを勝ち取った。結局、決勝でキューバに敗れて銀メダルに終わったんですが、キューバ戦はオリンピックの決勝の舞台であること自体に感動していてね、僕のなかで勝ち負けは正直、どうでもよかった(笑)。銀メダルは悔しいはずなんやけど、補欠からレギュラーになり活躍できたので、個人的には大満足の金メダルと言い切ってしまうね。
―その後、ドラフト1位で阪神タイガースへ。プロ入り前の意中の球団というのはあったのですか?
ないね。大学でドラフトにかかる選手は3年の頃から注目されるものなんだけど、いの一番に声をかけてくださったのが阪神タイガースでした。そのあと他球団からもお話を頂いたんですが、やっぱり終始一貫、一番の評価をしてくれたチームに行きたいでしょう?だから阪神に入団した。そんなところかな。
輝かしいアマチュア時代から一転、プロ入りから数年は伸び悩む。しかし星野仙一氏が監督に就任した2002年、ついにその才能が開花し一躍スター街道へ。その後の移籍なども含めて、今岡さんは入団から現役引退まで、どのような思いで野球と向き合ってきたのだろうか。
―現役時代、ポジションへのこだわりはあったのですか?
セカンド・ショート・サードと内野手を一通り経験したけど、基本的にはセカンドが好きかな。でも、一般的にセカンドといったら小柄で俊敏な選手を想像すると思うし、実際に守備力の高さが優先されることも多いから、僕みたいに大柄で肩の強い選手をセカンドとして使いこなしてくれた歴代の監督はすごいなと思います。僕の身長(185cm)ほどの二塁手なんてプロにもほとんどいないから、守っていたときは異次元におった気がするね。自分ならではの個性が出せるポジション、という部分が好きでした。「セカンド、でかっ!」みたいな(笑)。もっとも、守備位置というのはそのときの監督の意向によるもの。どのポジションであれ全力を尽くしてきたつもりです。
―では、打順についてはいかがでしょう。5番打者のときにシーズン歴代3位の147打点をあげています。
でも、自分は5番打者タイプじゃないことは確かやな。打ちやすいのは1番。理想は3番。5番はおまけ(笑)。実は僕、1番バッターとして日本記録を持っているんです。「2試合連続・初球・先頭打者ホームラン(2003年)」というもの。この記録はおそらく、二度と破られないんじゃないかな。それくらい積極的にヒットを狙った結果、その年に首位打者を獲ることができたんだけど、もう毎日ヒットが打てる気がしたよね。
3番で、ある程度の打率を残してホームランは25本くらいが僕の理想。まあ、5番としての147点は確かにすごい記録だけど、それはチームから長打を求められていたからであって、今思うと本来のスタイルではなかった気がするね。
―そのなかでチームの方針に従い、それを機に打撃スタイルを変えられた?
首位打者を獲り、打点王を獲った後、本気でホームラン王を狙いにいった時期はあったね。35本くらいなら打てるんじゃないかと思い、春のキャンプからホームランばっかり狙っていた。そうしたら今度は打率が下がり、スタメンから外されるケースが増えてきた。でも、それはええねん。高い目標を掲げて失敗しただけだから。成績が下がったのはケガや手術したせいなどと言われるけど、そうじゃなくて自分のスタイルを変えて挑戦したら失敗した。根本はそこ。当時は後悔もしたけど、今振り返ると、そのチャレンジは決して悪いことじゃなかったと思う。
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