社長の社会人としての第一歩は、どのようなものだったのですか。
卒業制作で他の色々な学科の作品や、それに取り組む学生達の一所懸命な姿を見て刺激を受けるうちに、空間演出の分野に興味を持ったんです。それで、スタジアムをライトアップしたり、照明を工夫して建築物の魅力をより高める仕事ができると思って志望を変えました。しかし配属先は道路の交通信号機や一般道路の電光表示機等を警察向けに営業する部門でして。でも、自分で選んだ結果ですから、興味を持って前向きに頑張ろうと思いました。警視庁を4年、福島県警を約3年担当しましたが、いざやって
警察相手の営業職とは、珍しい経験をされましたね。御社は代替わりをされているとお聞きしましたが、社長がその後会社を継がれたのには、どんなきっかけがあったのですか。
ただ代を替わったというだけの経緯ではなかったのですね。それにしても、交通関係の営業とビル・不動産の管理では仕事の内容が全く違いますよね。苦労や戸惑いはなかったですか。
父が働けなくなってすぐに母も病気になり、両親の面倒を同時に見なければなりませんでしたし、仕事を新しく覚えるのも大変だったのは確かですが、それらを苦労や戸惑いという形では受け取っていなかったように思います。それよりも、「自分がやらないで誰がやるんだ」という気持ちのほうが強かったです。父が亡くなってからその気持ちはもっと強くなりました。これからの事業運営や遺された家族の事‥‥。それら全てが私にかかっていると思っていましたから。そしてふと今までを振り返ると、これまでの経験は全てこの時のための、また今後の為の準備だったんだなと考えさせられました。個性豊かな人達の集まる大学で過ごした 4 年間も、警察の方々とのお付き合いを通じ社会の見方について勉強できた前職での経験も、両親の看病を続けた2年間の事も、全て繋がっている気がしました。
「ルーツ」の土地で
そんなふうに考えられるというのは、高見澤社長はとても芯の強いお人柄なのですね。
こんなに褒めていただけるなんて。ありがとうございます。私も美大出身で、個性の強い人達に囲まれて青春時代を送った経験は今でも自分の中で大きいと思っています。予め決められた限界や枠にとらわれず、何でも貪欲に吸収して人としての自分の幅を広げようとする気持ちは大事ですよね。
いわばご自身の「ルーツ」ですよね。この土地があり、そこに住むこの人が居たからこそ、今の自分が在るのだという。
そうです。私だけでなくこの会社も、父、そして祖父というルーツに繋がっています。当社は今年で設立 20 周年を迎えました。節目の年を過ぎ、これから先、更にどんな事業を手掛け、どんな姿に発展していくかは未知数です。しかしどうなっていくにしても、ベースは横浜に置いたままだと思います。私のルーツはこの横浜で、私はこの街が大好きですから。
まさに今が社長にとって本当の幕開けの時ですね。「これからのことは未知数」と言いながら、バイタリティに溢れる社長のこと。何か別の展開を、もう構想されているのではないですか?